SNS普及前にもあった社会の分断
最近、自分と考えが合わない人を暴力で追い落とす事例が後を絶たない。その際、多くの場合は言葉による「暴力」だが、昨秋の総選挙で日本維新の会の音喜多駿氏が被害に遭ったように、肉体への暴行におよぶこともある。
自分と他者とでは考えが違うのは当然のことである。しかし、違いながらも共通点はきっとあるのだから、そこを探して落としどころを見つける。議論とはそのためのものであるはずだ。
ところが、昨今はSNSの影響もあって、議論が成立しないばかりか、双方が相手に対して暴力的になるような分断が随所で起きている。SNSによる情報は、対立を感情ベースに変化させると指摘されている。すなわち、SNSへの投稿によって「かわいそうだ」「許せない」といった負の感情が刺激され、対立する相手への敵対意識が、議論不能なまでに増幅してしまう、というわけだ。
しかし、似たような状況が、SNSがいまのように普及する以前にもあったことが思い出される。2011年に東日本大震災の津波により、福島第一原発が世界の原子力発電の歴史においても、最悪というほどの事故を起こしたのちのことである。
このとき、原子力発電への嫌悪感が社会を覆い、原子力に価値を見出す学者はみな「御用学者」のレッテルを貼られた。そして原発はゼロにし、すべてを太陽光や風力などの再生可能エネルギーに置き換えるべきだ、という主張がメインストリームになった。目立ったのは、原発は危険性と常に隣りあわせで、社会や環境に甚大な悪影響をあたえかねないのに対し、再生可能エネルギーは自然にも環境にもひたすらやさしい、という言説だった。
このように、一方の側が原発を100%否定し、再生可能エネルギーを100%肯定する状況では、議論が生まれる余地がない。現在はれいわ新選組の代表を務める山本太郎氏が、原発肯定派に暴言を吐き、議論を妨害していたのが象徴的である。
再エネの欠点に目が向けられなかった
メディアでは、とくに朝日新聞が議論を拒む主張をしていたと記憶している。たとえば2011年3月25日付の社説には、次のように記されている。
「長期的には原子力への安易な依存は許されなくなる。太陽光や風力、燃料電池など新エネルギーの利用を増やし、地球温暖化防止に必要な低炭素社会への地ならしにもしたい」
これが書かれたのは、震災および原発事故の発生から2週間もたっていない時期だが、その後、「原発」の否定と「新エネルギー」の礼賛は、徐々に度合いが高まっていった。その際、私が考えていたのは、次のようなことだった。
それぞれのエネルギーに長所と短所があるはずで、それらを比較考量すべきではないのか。被災した福島県双葉町の商店街にかけられていた「原子力明るい未来のエネルギー」という標語看板は、原子力の危険性への目を曇らせることになったかもしれない。だったらいま、再生可能エネルギーには短所がないかのように喧伝し、あるかもしれない「危険性」への目を曇らせても、将来に重大な禍根を残すことになるのではないか――。つまり、どちらかに偏るのではなく、両者について十分な議論を尽くすべきではないか、と。
当時、以下の事実を知って危惧したのを忘れない。太陽光パネルで原発1基分の電力を賄おうとすれば、東京都と同じくらいの面積にパネルを敷き詰めなければならない。しかもパネルの耐久性は10年程度だから、定期的に大量の廃棄物が発生する――。
むろん、面積当たりの発電量は技術の進歩とともに増加しており、これからも増加するだろう。耐久性もいまでは20〜30年程度といわれている。しかし、一定量を発電するためには広大な土地が必要で、廃棄物という別の負債をかかえるという問題自体が解消されるわけではない。