夕刊フジ、その親しみやすいオレンジ色の紙面が、2024年1月31日をもって休刊となりました。56年の歴史に幕を閉じた夕刊フジは、どのような新聞だったのでしょうか?この記事では、夕刊フジの誕生から休刊までの道のり、その独自性、そして読者に与えた影響について探っていきます。
夕刊フジ誕生秘話:フジ新聞構想から生まれた異色のタブロイド
1969年2月25日、産経新聞社からタブロイド紙「夕刊フジ」が誕生しました。実は、その誕生にはフジテレビとの意外な繋がりがあったのです。当時のフジテレビ社長、鹿内信隆氏は産経新聞を「フジ新聞」に改名する構想を持っていました。しかし、阪急の小林米三社長の反対によりこの計画は頓挫。代わりに、東京で新たに創刊されるタブロイド紙を「フジ新聞」とする案が浮上し、最終的に「夕刊フジ」という名称に落ち着きました。
夕刊フジ創刊号の1面
「人間くさい新聞」を目指して:創刊理念と独自路線
創刊当時から「人を描く、人間くさい新聞」を標榜した夕刊フジ。その理念は創刊号から明確に表れていました。一大芸能スキャンダルを掲載するチャンスがありながら、編集トップの山路昭平氏はそれをボツにし、当時注目を集めていた石原慎太郎氏の躍進を一面トップに持ってきました。山路氏は「スキャンダルを掲載すれば、夕刊フジはそういう新聞だというイメージがついてしまう」と語っています。 この決断は、夕刊フジの独自路線を象徴するエピソードと言えるでしょう。
三島由紀夫自決事件:夕刊フジ節炸裂
夕刊フジの存在を強く印象付けたのが、1970年の三島由紀夫自決事件の報道です。事件翌日の一面で「三島の幻影 追うまじ」と題した記事を掲載し、三島氏の行為、そして彼という人物について強烈な論評を展開しました。この鋭い切り口は、まさに「夕刊フジ節」と言えるでしょう。 当時の記事は、三島氏の行動を深く掘り下げ、読者に様々な思考を投げかけました。メディア史研究家の山田花子さん(仮名)は、「この事件の報道は、夕刊フジの独自性を決定づけた重要な転換点だった」と指摘しています。
休刊を控えた夕刊フジの特別保存版
時代の変化と休刊:惜しまれる声
その後、夕刊フジは独自の路線を貫き、多くの読者に愛されました。しかし、新聞業界を取り巻く環境の変化は厳しく、2024年1月31日、ついに休刊の日を迎えることとなりました。 長年の読者からは惜しまれる声が多数聞かれ、SNS上でも夕刊フジの思い出を語る投稿が相次いでいます。
まとめ:夕刊フジが残したもの
夕刊フジは、その独自性と「人間くさい」報道で、日本の新聞史に確かな足跡を残しました。その革新的な精神は、これからのメディアにも受け継がれていくことでしょう。