日本の多くの学校で見かける、薪を背負いながら本を読む二宮金次郎の銅像は、勤勉さや向学心を象徴する存在として、子どもたちの手本とされてきました。しかし、彼の思想はその勤勉さだけに留まらず、「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」という言葉に代表されるように、道徳と経済の調和を説くものでした。二宮金次郎こと二宮尊徳は、いかにしてこの独自の思想を確立し、人々に尊敬される存在となったのでしょうか。
道徳と経済の調和「五常講」とは
二宮尊徳の思想の中核をなすのが、道徳と経済を融合させようとする「五常講(ごじょうこう)」です。五常とは、儒教における基本的な五つの徳目、すなわち「仁・義・礼・智・信」を指します。仁は慈愛の心、義は正義と公正を貫くこと、礼は礼節を重んじ敬意を払うこと、智は道理を正しく理解する知恵、そして信は他者を信頼する心を示します。
尊徳は、この倫理道徳を基盤として金銭の貸し借りなどの経済行為を行うことを提唱しました。例えば、お金を借りた際に感謝の気持ちを忘れずにきちんと返済することは、五常を実践していることになります。権利の行使や義務の履行には「信頼」が最も重要であり、常に誠実に行われるべきだというのが彼の考えでした。この思想は、「世を治め民を済う(救う)」という意味を持つ「経世済民」という「経済」の語源とも重なり、尊徳が単なる勤勉家ではなく、深遠な社会思想家であったことを示しています。
貧困から学んだ勤勉の精神
尊徳、幼名金次郎は江戸時代後期、現在の神奈川県小田原市に農家の長男として生を受けました。二宮家は元々村一番の地主でしたが、酒匂川の大氾濫という天変地異により、その肥沃な田畑はすべて流されてしまいます。この出来事を境に、二宮家の生活は一変しました。父の利右衛門は流された田畑を復旧させようと必死に働き続けますが、無理がたたり体を壊してしまいます。幼い金次郎も田畑の仕事を手伝い、さらに力を入れて農作業に励むようになりました。
冬になり農作業ができない時期には、酒匂川の堤防工事を手伝います。まだ子どもである金次郎が大人と同じように働くことはできませんでしたが、彼は何か自分にできることはないかと考えました。元々草鞋(わらじ)作りを手伝っていた金次郎は、工事で傷みが早く、次々と交換が必要となる職人たちの草鞋を作ることに専念しました。
薪を背負い本を読む二宮金次郎の銅像
苦難を乗り越える少年期の努力
この頃から、金次郎は学問に強い興味を抱くようになります。日中の力仕事である工事を終え、夜は草鞋を作りながら本を読むという、超人的な生活を続けたのです。さらに、草鞋で得たお金で松の苗を買い、酒匂川の土手へ植えていきました。これは、将来の川の氾濫を防ぐための、先見の明に富んだ行動でした。
一方、父の利右衛門は体調をさらに悪化させ、ついに帰らぬ人となります。不幸は続き、その2年後には母のよしもこの世を去ってしまいました。両親の死という大きな悲劇をきっかけに、金次郎兄弟はそれぞれ別の親戚に引き取られることになります。この時、金次郎はまだ16歳でした。2人の弟は母方の親戚へ、金次郎は父の兄の家へと引き取られ、一家は離散の憂き目に遭いました。
逆境を越え、未来を築いた先見の明
二宮金次郎の少年時代は、天変地異による貧困、両親との死別、そして一家離散という過酷なものでした。しかし、彼は逆境の中で勤勉さを失わず、読書によって知識を深め、さらには未来を見据えて松を植えるといった実用的な行動に出ました。これらの経験が、後に彼が説く「道徳と経済の調和」という思想の根幹を形成し、荒廃した農村を立て直し、多くの人々を救うための礎となったのです。彼の生涯は、単なる勤勉さの象徴ではなく、深い人間愛と実践的な知恵、そして決して諦めない精神の結晶として、現代社会においてもなお、私たちに多くの示唆を与え続けています。





