生存率は10%以下…「戦艦大和」で生き残った男が、生還の翌朝に「船の上で思ったこと」


生還

【写真】戦艦大和のこんな姿が…! 呉工廠での最終艤装中の姿

そのときに役に立つ一冊が、吉田満『戦艦大和ノ最期』です。

本作は、戦艦「大和」に乗り込んでいた著者の吉田が、1945年春先の大和の出撃から、同艦が沈没するまでの様子をつぶさにつづったものです。

吉田とはどんな人物なのか。1943年、東京帝国大学の法科在学中に学徒出陣で海軍二等兵となり、翌1944年に東大を繰り上げ卒業。その年の12月に海軍少尉に任官され、「副電測士」という役職で大和に乗り込みます。

やがて吉田が乗った大和は沈没するわけですが、太平洋戦争が終わった直後に、大和の搭乗経験を、作家・吉川英治の勧めにしたがって一気に書き上げたのが本書です。

その記述がすべて事実の通りなのか、著者の創作が混ざっているものか、論争がつづいてきましたが、ともあれ、実際に戦地におもむいた人物が、後世にどのようなことを伝えたかったのかは、戦争を考えるうえで参考になることでしょう。

同書では、艦内の出来事が生々しく描かれます。

4月6日の午後、山口の徳山港を出た大和ですが、翌7日に大きな攻撃を受け、沈没します。のちの調査で、大和の乗員の生存率は10%以下であったことがわかっていますが、吉田はからくも生き残りましたが、8日の朝、呆然としながらこのようなことを考えたといいます。同書より引用します。

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八日、朝

一夜ヲ睡ッテ、体力恢復、発熱悪寒スベテ退散セルモ、目ノ痛ミ甚シク、容易ニ開カズ

甲板ニ出デテ顔ヲ洗ウ 漆黒少シモ減ゼズ

互イノ珍妙ナル面貌ニ、改メテ腹ヲカカウ

艦スデニ九州西岸ヲ走ル 陽光沁ミワタル眸ニ、内地ノ山ノ、麗ラカナル美シサ

思ワズ嘆声アガル「生キルノモ、ヤッパリイイナア」

サレド陽春ノコノ明色、数無キ戦友ノ死ノ傍ラニ、ナオ生ヲ保テルヲ愧ジ入ラシム

生還ハ我ラガ発意ニ非ズ、僥倖ノ結果ナリトミズカラヲ慰ムルモ、ナオ後メタサ消エズ

我ラ救ワレタルハ、正シキカ

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「生キルノモ、ヤッパリイイナア」という気持ち、そして「我ラ救ワレタルハ、正シキカ」という気持ちのあいだで揺れ動く吉田の心中が見て取れます。

ぼろぼろの衣服や、半裸の状態で生還した乗組員たち。本書によれば、生き残りの後ろめたさに、特攻志願者も多く現れたといいます。

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【つづき】「6畳の部屋には「四肢をもがれた赤い胴体」が…「戦艦大和」が、米軍機から攻撃を受けたあとの「電探室の惨状」」では、大和での吉田の経験をさらに見ていきます。

群像編集部(雑誌編集部)



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