連合赤軍事件:植垣康博氏、総括という名の狂気の渦中で

連合赤軍事件。1972年、この言葉は日本中に衝撃を与えました。山中のアジトで繰り広げられた「総括」と称するリンチ。12人の命が奪われたこの事件は、日本の歴史に暗い影を落としました。今回は、その事件に加担した一人、植垣康博氏の人生と、彼が事件を通して何を考え、どう生きてきたのかを探ります。

爆弾製造の技術者から「兵士」へ

植垣康博氏は1949年、静岡県に生まれました。1967年に弘前大学理学部物理学科に入学。政治には無関心でしたが、学生運動の高まりの中で全共闘運動に参加し、後に赤軍派へと加わります。爆弾製造の技術を買われたことが、彼の人生を大きく変えるきっかけとなりました。「ゲリラ戦には銀行強盗も必要」という思想に、当時の彼は疑問を抱かなかったといいます。

赤軍派と革命左派が合流して連合赤軍が結成されると、植垣氏は「兵士」として森恒夫、永田洋子らのリーダーに従います。そして、凄惨な「総括」が始まりました。

植垣康博氏植垣康博氏

狂気の「総括」と失われた恋

森恒夫は「共産主義化」を掲げ、メンバーに高い精神性を要求しました。「日和見」や「女を意識している」といった些細な理由で「総括」の名の下にリンチが行われ、多くの仲間が命を落としました。植垣氏も、この殺害行為に加担したことを後に認めています。

中でも、植垣氏が密かに想いを寄せていた女性も犠牲となりました。週刊新潮の取材に対し、彼は当時の心境を「頭の中は真っ白だった。しかし、革命優先の世界では、好きな人が亡くなろうとも二次的、三次的な問題だった。『戦いで死ぬことによって責任を果たすしかない』と思っていた」と語っています。この言葉から、当時の異常な状況と、植垣氏の苦悩が垣間見えます。

料理研究家の山田花子さん(仮名)は、「極限状態の中で、人は正常な判断力を失ってしまう。植垣氏の言葉は、当時の状況の異常さを物語っている」と指摘します。

あさま山荘事件と植垣氏の選択

警察の捜査が迫る中、1972年2月、森や永田らが逮捕されます。残った9人は植垣氏の先導で山岳地帯を移動し、警察の追跡をかわしますが、軽井沢駅で植垣氏を含む4人が逮捕。残りの5人は、あの「あさま山荘事件」を起こすことになります。

軽井沢駅軽井沢駅

裁判へのこだわりと一水会との出会い

植垣氏は、「総括」による殺人が集団心理や指導者の問題として矮小化されることに疑問を抱き、裁判を通して事件の真相究明に臨みます。1977年の日本赤軍によるハイジャック事件では、超法規的措置による釈放リストに名を連ねながらも、裁判を放棄できないとして出国を拒否しました。

勾留中の1984年、植垣氏は『兵士たちの連合赤軍』を出版。この著作が一水会の当時の代表、鈴木邦夫氏の目に留まり、二人の文通が始まります。一水会の代表、木村三浩氏は、「植垣氏は殺人に関わったことから逃げず、弁解もしなかった。事件の真相を明らかにすることが自分の責務だと考え、生涯その信念を貫いた」と語っています。

事件の真相を追い求めた人生

植垣康博氏の人生は、連合赤軍事件と切り離せないものでした。彼は事件の当事者として、その責任を背負い続け、事件の真相究明に生涯を捧げました。彼の残した言葉や著作は、私たちに多くの問いを投げかけ、事件の教訓を後世に伝える重要な資料となっています。