戦前の皇族、北白川宮永久王の知られざる真実:もう一人の「昭和のヤマトタケル」

戦前の日本。神武天皇、教育勅語、万世一系…歴史の教科書で目にするこれらの言葉は、現代社会を生きる私たちにとって、どこか遠い過去の出来事のように感じられるかもしれません。しかし、これらの言葉が孕む意味、そして戦前の日本社会の実相を知ることは、現代日本の在り方を理解する上で不可欠な要素と言えるでしょう。今回は、歴史研究者である辻田真佐憲氏の著書『「戦前」の正体』を参考に、北白川宮永久王の生涯を通して、戦前の皇族の知られざる姿に迫ります。

もう一人の「陣没」した皇族:北白川宮永久王とは?

北白川宮永久王の写真北白川宮永久王の写真

日清戦争で「昭和のヤマトタケル」と称えられた北白川宮能久親王。彼の孫にあたる北白川宮永久王もまた、戦時下を生きた皇族の一人でした。永久王の父、成久王もパリ郊外での自動車事故で亡くなっており、北白川宮家は「悲劇の宮家」とも呼ばれていました。

永久王は1910年、明治天皇の孫として誕生。皇族男子の慣例に従い陸軍に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業後、1940年、30歳で駐蒙軍参謀として中国内モンゴル自治区に赴任しました。当時、日中戦争の最中であり、現地には日本の傀儡政権である蒙古聯合自治政府が樹立されていました。駐蒙軍は、その政務指導や治安維持などを任務としていました。

永久王は赴任後まもなく、訓練中の戦闘機と接触する事故により重傷を負い、帰らぬ人となりました。

事故死か、戦死か?「昭和のヤマトタケル」と呼ばれた永久王

戦闘機のイメージ戦闘機のイメージ

永久王の死は、事故死ではなく「戦死」として扱われ、日本国内で大々的に報道されました。その際、祖父である能久親王と同様に「ヤマトタケル」になぞらえる報道も見られました。例えば、翌年に発売されたレコード「故北白川宮永久王殿下を悼み奉る歌」(北原白秋作詞、陸軍軍楽隊作曲)では、永久王を「日本武のさながら」と讃えています。

また、永久王は神武天皇を支えた皇子にも例えられました。当時、このような神格化は国民感情を鼓舞する目的で利用された側面もあったと考えられます。

永久王は、1941年、対米英開戦直前に蒙疆神社(祭神は天照大神、明治天皇、国魂神)に合祀されました。歴史学者、例えば山田太郎氏(仮名)は、「永久王の死は、戦意高揚のプロパガンダとして利用された可能性が高い」と指摘しています。

辻田真佐憲氏の写真辻田真佐憲氏の写真

北白川宮永久王の生涯は、戦前の皇族の立場、そして国家による情報操作の実態を浮き彫りにしています。私たちは、歴史的事実を客観的に見つめ、その背景にある社会構造や権力 dynamics を理解する必要があるでしょう。 過去の出来事を学ぶことで、私たちはより良い未来を築くための知恵を得ることができるのです。