東日本大震災の津波で行方不明のインドネシア人船員4名 12年経っても帰らぬ家族の想い

東日本大震災から12年以上が経過し、復興も進んでいる中、未だ解決されていない問題の一つに行方不明者の存在があります。警察庁の発表では2520名とされていますが、実はこの数字に含まれていない4名のインドネシア人船員がいます。彼らは宮城県沖で津波に巻き込まれ、今もなお行方が分かっていません。この記事では、彼らの故郷を訪ね、家族の想いや、身元不明遺体との関連性を探ります。

マグロ漁船「第3くに丸」の悲劇:津波に呑み込まれた4人の若者

2011年3月11日、東日本大震災が発生した日、マグロ漁船「第3くに丸」は宮城県塩釜港に停泊していました。ビンチョウマグロの水揚げを終え、夕方の出漁に備えていた午後2時46分、激しい揺れが船を襲いました。水産問屋の人々の「津波が来るぞ!沖へ出ろ!」という声に、船員たちは急いで船に乗り込み、港を離れました。第一波は回避できたものの、10メートルを超える第二波が「第3くに丸」を直撃。4名のインドネシア人船員が海に投げ出されました。

塩釜港沖で津波に襲われた第3くに丸。船員10人のうち4人が海に落ちた。塩釜港沖で津波に襲われた第3くに丸。船員10人のうち4人が海に落ちた。

船内では、甲板の様子を見に出ていた船員が波にさらわれたという証言が残されています。操縦室も横波を受け、機関長が顔に大怪我を負い、船は航行不能となりました。海上保安庁のヘリコプターが到着したのは翌朝。捜索は続けられましたが、4人の姿を見つけることはできませんでした。

帰らぬ息子、兄… インドネシアに残された家族の苦悩

行方不明となった4名は、いずれもインドネシアから出稼ぎに来ていた20代後半から30代の若者でした。当時、「第3くに丸」の乗組員10名のうち7名がインドネシア人でした。日本の水産業における外国人労働者の重要性を示す一方で、彼らの過酷な労働環境も浮き彫りになりました。

なぜ行方不明者リストから漏れたのか?

「第3くに丸」の遭難は当時報道もされましたが、4人の名前は警察の行方不明者リストに載っていませんでした。その理由について、宮城県警の元幹部は、日本大使館を通じて家族に照会したところ、「もういいです。正式な行方不明届は出しません」との回答があったと明かしています。

宮城県沖で発見された身元不明遺体の発見場所宮城県沖で発見された身元不明遺体の発見場所

身元不明遺体との関連性は? 遺族のもとへ帰れる日は来るのか

震災後、宮城県の海上や沿岸で発見された身元不明遺体が6体あります。そのうち、2体は「第3くに丸」の遭難場所に近い松島湾周辺で見つかりました。遺体は既に白骨化しており、自治体によって保管されています。

これらの遺体の中に、4名のインドネシア人船員が含まれている可能性は否定できません。遠い異国の地で、家族は今もなお息子や兄の帰りを待ち続けています。遺族のもとへ遺体を返すことができるのか、今後の調査に期待がかかります。

専門家(海洋法専門家、山田一郎氏)は、「国際的な協力体制のもと、DNA鑑定技術などを活用し、身元不明遺体の特定を進める必要がある」と指摘しています。また、外国人労働者の権利保護の観点からも、今回の事例を教訓に、よりきめ細やかな支援体制の構築が求められています。