1995年3月20日、東京を震撼させた地下鉄サリン事件。未曾有のテロによって多くの人々が犠牲となり、社会に大きな傷跡を残しました。今回は、事件発生直後、現場となった墨東病院で治療にあたった堤晴彦医師と、解毒剤を届けるために奔走した医薬品卸社員の阪本正夫氏に焦点を当て、当時の緊迫した状況と、彼らの勇気ある行動について振り返ります。
混乱の朝、救命救急の最前線で
事件発生当時、墨東病院の救命救急センターで勤務していた堤医師は、朝のカンファレンス中に「地下鉄で爆発らしきもの、多数の負傷者」という第一報を受けました。消防からの患者受け入れ要請に緊迫感が走る中、堤医師は迷うことなく「全員受け入れる」と決断。未曾有の事態に、経験豊富な医師としての強い責任感と使命感が彼を突き動かしました。
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次々と搬送されてくる患者たちは、激しい嘔吐、痙攣、呼吸困難に陥っていました。適切な治療薬を投与する必要がありましたが、原因は不明。刻一刻と悪化する患者の容態に、堤医師をはじめとする医療スタッフは懸命の治療を続けました。
共通する症状、そして堤医師の洞察力
堤医師は、多くの患者を診察する中で、共通する症状に気づきます。「全員、瞳孔が縮小している」。これは縮瞳と呼ばれる目の異常でした。さらに、多くの患者が「視野が暗い」と訴えていたのです。これらの症状から、堤医師は神経ガスによる中毒の可能性を疑い始めました。
解毒剤PAM、奔走する医薬品卸社員
一方、医薬品卸会社スズケンの城東支店では、支店長がテレビで事件の報道を目にしていました。被害者のインタビューで目の不調を訴える声を聞いた支店長は、すぐに社員の阪本氏に「解毒剤PAMを用意しろ!」と指示を出します。
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PAMは農薬中毒などに使用される薬で、都心にはほとんど在庫がありませんでした。阪本氏は奔走し、埼玉県内のメーカー倉庫に在庫があることを確認。しかし、通勤ラッシュ時の高速道路は渋滞が発生しており、搬送に時間がかかることが予想されました。そこで、倉庫に近い支店の支店長に受け取りを依頼し、一刻も早く病院にPAMを届けるための連携プレーが開始されました。
危機の中での連携、そして希望の光
原因不明の症状に苦しむ患者たち、そして一刻を争う状況の中、堤医師は経験と知識に基づき、サリン中毒の可能性が高いと判断。確証がないまま、解毒剤PAMの投与を決断しました。この迅速な判断と行動が、多くの命を救う鍵となったのです。
(架空の専門家談) 帝京大学医学部附属病院高度救命救急センター教授、江川達也氏の見解では、「堤医師の迅速な判断と行動は、まさに医師としての鑑と言えるでしょう。情報が限られた状況下で、的確な判断を下し、多くの命を救った功績は計り知れません。」
教訓と未来への希望
地下鉄サリン事件は、日本の安全神話を揺るがし、社会に大きな衝撃を与えました。しかし、この未曾有の危機の中で、医療従事者や関係者たちの献身的な努力、そして勇気ある行動によって、多くの命が救われました。
事件から四半世紀以上が経ちましたが、私たちはあの日の教訓を風化させることなく、未来へと繋いでいく必要があります。そして、平和で安全な社会の実現に向けて、一人ひとりができることを考え、行動していくことが大切です。