アントニオ猪木「舌出し失神事件」の真相 実弟が明かす舞台裏とメディア戦略

アントニオ猪木。その名は、プロレスファンのみならず、日本の歴史に深く刻まれたカリスマの一人です。数々の伝説に彩られた猪木の人生ですが、1983年のIWGPリーグ戦決勝での「舌出し失神事件」は、今もなお多くの謎に包まれています。今回は、実弟である猪木啓介氏の著書『兄 私だけが知るアントニオ猪木』を元に、事件の真相に迫ります。当時のメディア戦略や、報道の裏側にも焦点を当て、これまで語られなかった物語を紐解いていきましょう。

舌出し失神事件とは?

1983年6月2日、第1回IWGPリーグ戦決勝。ハルク・ホーガンとの激闘の末、猪木はリング上で失神KO負けを喫しました。舌を出したまま倒れ込む猪木の姿は衝撃的であり、多くのファンを驚かせました。この事件は、様々な憶測を呼び、プロレス界を揺るがす一大事件となりました。

第1回IWGPリーグ戦。決勝のハルク・ホーガン戦で失神KO負けを喫するアントニオ猪木(1983年)第1回IWGPリーグ戦。決勝のハルク・ホーガン戦で失神KO負けを喫するアントニオ猪木(1983年)

実弟・啓介氏の証言

啓介氏は著書の中で、事件当日の様子を詳細に記しています。猪木は試合後、病院に搬送されましたが、医師の診断は「異常なし」。しかし、マスコミの目を避けるため、猪木は病院を極秘裏に退院し、啓介氏の運転する車で自宅に戻ったといいます。

この「極秘退院」こそが、後の報道における混乱の始まりでした。当時、東スポの編集幹部だった櫻井康雄氏は、猪木の退院をスクープしようと躍起になっていました。しかし、新間寿氏を中心とした新日本プロレス側の情報操作により、櫻井氏は翻弄されることになります。

東スポ報道と真実の乖離

櫻井氏は後に、当時の状況を振り返り、いくつかの「事実」を主張しました。例えば、芸能レポーターの梨元勝氏が猪木夫妻の退院を目撃したこと、猪木が新間に連れ戻されて再び病院に戻ったこと、ホーガンが猪木の容態とギャラの支払いを心配していたことなどです。

しかし、啓介氏はこれらの主張を真っ向から否定します。梨元氏からの情報提供はあったものの、猪木が再び病院に戻ったことはなく、ホーガンも既にギャラを受け取っていたため、心配する理由がなかったと証言しています。

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メディア戦略と情報操作

啓介氏は、これらの「事実」は、櫻井氏と新間氏による情報操作の結果だと考えています。新間氏は、猪木のイメージを守るため、極秘退院を隠蔽しようとしました。そして、櫻井氏もまた、新日本プロレスとの良好な関係を維持するために、新間氏の意向に沿った報道を展開したのです。

プロレスジャーナリストのA氏(仮名)も、当時の新日本プロレスの情報操作は巧妙だったと指摘します。「彼らは、情報を小出しにしたり、意図的に誤情報を流したりすることで、メディアをコントロールしていました。今回の件も、その一環だったと言えるでしょう。」

真相は闇の中?

事件から数十年が経ち、関係者の多くが既にこの世を去っています。真実は、今もなお闇の中に包まれたままです。しかし、啓介氏の証言は、事件の真相に迫るための貴重な手がかりとなるでしょう。そして、この事件は、プロレス界におけるメディア戦略と情報操作の重要性を改めて示すものと言えるかもしれません。