作家・佐藤愛子は45歳の時、著作『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞した。小説家としてはこれ以上ない誉れのはずが、受賞の知らせを聞いたとき、彼女は素直に喜ぶことはできなかったという。その複雑な思いとは――ー。※本稿は、佐藤愛子『老いはヤケクソ』(リベラル社)の一部を抜粋・編集したものです。
● 苦節20年の末の 直木賞受賞
昭和44年夏、私は『戦いすんで日が暮れて』という小説で直木賞を受賞した。45歳。小説を書き始めてから20年目に漸く私は認められたのである。
「戦いすんで日が暮れて」は43年の秋、『小説現代』の注文で原稿料ほしさに書いたもので、倒産の経験を下敷きにした作品である。
受賞の報せは、たまたま親友の川上宗薫さんの病気見舞いに出向いた虎の門病院梶ヶ谷分院で受けた。その頃、梶ヶ谷はまだ原っぱや田畑が多くて私は道に迷い、日が暮れかける頃漸く辿り着くと、ナースステーションでガーゼの寝巻姿の川上さんが電話口に出ていた。川上さんは入って行った私を見るなり、
「おい、何やってんだ、受賞したぞ!」
興奮して叫んだ。私の行方を捜して、方々から川上さんのところへ問合せの電話が入っていたのである。
一瞬、私は「あッ」と思った。「やっぱり来たか!」と思った。
私はこうなってほしいと思う時には、決してなってほしいようにはならず、こうなっては困る、と思っているとそうなってしまうという尼介な運命の持主である。
「戦いすんで日が暮れて」
が直木賞候補になったことを知った時、私は「もし賞が来たら困る」と思った。賞を取った作家にはどっと小説の注文が来るという。
その注文をこなす自信がないというよりも、倒産後のただでさえ騒々しい日々の上に、マスコミから追い廻される日々が重なってはとても身がもたない、ろくでもない小説しか書けないだろうという心配があったのだ。
● 素直に喜べなかった 作家としてのプライド
私は「加納大尉夫人」で直木賞がほしかった。「戦いすんで日が暮れて」よりも「加納大尉夫人」の方がいい作品だと思っている。「加納大尉夫人」で取れなかった賞を、「戦いすんで」で貰うことは私の実作者としての気持がスッキリしないのだ。
賞は自分でも納得した作品で貰いたい。何でもいい、賞を貰えばいいんだ、という気持は賞を侮辱しているものではないか。
??と私は思うのだが、この時私に賞を与えたのに嬉しがらなかったというので、私は後々まで文藝春秋のエライ様方から生意気な奴と嫌われる羽目になった。(賞というものは「お祭り」なのだから、そう堅く考えることはないらしいということがわかったのは最近である)
私は文学の世界こそ、ありのままの自分を見せ、正直に自分の価値観を通せる自由な世界だと思っていた。
だからこそ他の世界には生きられない私のような人間でも、ここで生きることが出来るのだと思っていたのだ。
だがこの世はどの分野でも大同小異であることがわかった。そこに馴染めないならば、吉田一穂先生のように3畳の間に陣取って孤高を掲げて生きるしかない。
しかしそれには、吉田先生のように、
「先生、少しは生活のこともお考えになって下さい」
と弟子にいわれて、
「生活?そんなものは家来に任せておけばいい」とうそぶいていられるような実力が必要だ。私にはそれがないのであるから、やはり世間の常識に従って、人の好意に対して感謝を表明しなければならなかったのであろう。それもやっとこの頃わかった。
● 受賞をするか迷ったときに 親友が発したひと言
川上さんの病室には既に文藝春秋社の人が私を待っていて、私は、
「お受けいただけますか?」
と訊かれた。一瞬複雑な思いが胸を過った。すぐには答えられず、思わず私は、「川上さん、どうしよう!」
といっていた。