日本人の主食であり、文化的なつながりも深い「米」の価格高騰が続いています。上がり幅は一時落ち着いたものの、高値圏での推移が続き、消費者はスーパーでその値段を見るたびに困惑を隠せません。そんな中、安価な「古古米」の販売が発表され、全国のスーパーで長蛇の列ができました。なぜ、多くの人々が時間と労力を費やしてまでこの行列に並んだのでしょうか。そこには単なる節約以上の、複雑な背景があるようです。
「古古米」販売でスーパーに長蛇の列:お祭り騒ぎの現場
コメの価格高騰が続く中で販売された古古米は、まさに救世主のように受け止められました。全国のスーパーには、開店前から文字通り長蛇の列ができ、その光景は一種のお祭り騒ぎのようでした。安価でコメを手に入れられた幸運な人々の喜びの声がある一方で、前日から徹夜で並んだという人もいれば、店の誘導ミスで結局買えずに怒りをあらわにする人もおり、現場では悲喜こもごものドラマが繰り広げられました。テレビのインタビューでは、「コメの高騰に腹が立っている」と、この行列の背景にある消費者心理を代弁するような声も聞かれました。
現在、スーパーでのコメの平均価格は5キロあたり4200円を超えていますが、古古米は同量で約2000円ほどで販売されました。単純計算で2000円以上の節約になるわけですが、この差額のために数時間、あるいはそれ以上も並ぶというのは、時間対効果(タイパ)だけでは説明がつきません。そこには経済的な損得勘定を超えた、何か別の強い動機が働いていたと考えられます。
主食「米」が持つ特別な意味:ライフラインが断たれるような不安
昨年、スーパーからコメが一時的にごっそりと姿を消した時期がありました。その際、多くの日本人が理由の分からない強い不安感に襲われたといいます。この出来事は、私たち日本人が主食であるコメに対して抱いている特別な感情を浮き彫りにしました。それは、代替可能な嗜好品が手に入らないといった程度の我慢で済むような生易しいものではなく、まるで生命維持に不可欠なライフラインが突然断ち切られたかのような、根源的な不安や絶望に近い感覚だったのです。
生物学的に見れば、コメという一品目がなくても人間は生きていくことは十分に可能です。しかし、品薄になった際の私たちの狼狽ぶりを見るに、コメは単なる数ある食料品の一つに留まらず、もっと上位の、私たちにとって欠かせない特別な存在として認識されていることが強く伝わってきました。今回の古古米行列は、こうしたコメへの深い依存と、それを脅かされることへの恐れが複合的に作用した結果とも言えるでしょう。
スーパーの米売り場に並ぶ人々
実際の「古古米」の味は?意外な高評価とその背景
古古米の販売とその行列が一段落した後、インターネット上やメディアでは、実際に古古米を食べた人々の食レポや、その味に関する感想が多く投稿されるようになりました。行列に並んで苦労して手に入れた人々の多くは、炊きあがったご飯を前に、期待感と安堵感、そして空腹も相まって、味の評価にプラスのフィルターがかかっていた可能性は否めません。しかし、彼らの満面の笑みとともに発せられた「おいしい」という声は、その苦労が報われた瞬間を象徴していました。
一方で、行列に並ばず、後日店頭などで比較的手軽に古古米を入手した人々の評価はどうだったのでしょうか。こちらも意外なことに、「新米と遜色ない」「十分おいしい」といったポジティブな感想が多く聞かれました。古古米の販売が発表される前は、味について否定的な予測や意見も少なくありませんでしたが、実際に口にしたことでその評価が変わったようです。
これは、「よく知らない相手に対しては批判的になりがちだが、実際に会ったり少し知ると悪く言えなくなる」という心理現象に似ているかもしれません。実際に古古米を食べてみた結果、事前のネガティブな印象ほど悪くはない、あるいは十分に許容できる味だと感じた人が多かったと考えられます。もちろん、こうした心理的な要因だけでなく、純粋に味の面で期待を上回る品質だった可能性も十分にあります。
さらに、高騰後のコメはあまりにも高価になったため、私たちのコメに対する意識そのものに変化が生じています。パスタやうどんなど他の炭水化物の選択肢がある中で、あえて高値のコメを選ぶことへの一種の罪悪感や、毎日食べるのを控え、特別な「ご褒美」としてしか食べられなくなったことによる、葛藤を伴う味覚。こうした心理的なハードルが生まれています。だからこそ、高騰前の価格に近い古古米は、そうした引っかかりや罪悪感を感じることなく、心置きなく楽しめるコメとして、消費者を一層喜ばせたのです。古古米の味への意外な高評価は、単に美味しいというだけでなく、高騰するコメ価格がもたらした心理的な重圧からの解放感も多分に含まれていたのかもしれません。
まとめ
「古古米」を巡る一連の騒動は、単に物価高の中で安い食料を求める動きに留まりませんでした。そこには、日本人にとって主食である米がいかに特別な存在であり、その価格高騰が私たちの生活や心理に深い影響を与えているかが如実に表れていました。行列に並ぶという一見非合理的な行動の裏側には、経済的な節約だけでなく、コメへの根源的な安心感を求める気持ちや、高騰する日常への不満、そして「ご褒美」としてのコメを心置きなく楽しみたいという複合的な感情が隠されていました。今回の出来事は、改めて日本の食文化と経済状況の複雑な関係を浮き彫りにしたと言えるでしょう。