秋葉原で2008年に発生した無差別殺傷事件から、今年の6月8日で17年が経過しました。この悲惨な事件では、トラック突入と無差別の襲撃により多数の死傷者が出ました。現場に居合わせ、自ら救助活動にあたった一人の男性、西村博章さん(40)は、当時の凄惨な光景と、懸命な救命処置にもかかわらず目の前で失われていった命の重みを今も鮮明に覚えています。彼の経験は、事件の直接の被害者だけでなく、救助にあたった人々にも深い精神的傷跡を残すことを示しています。
現場の混乱と最初の応急手当
蒸し暑い日だった2008年6月8日、当時愛知県に住んでいた大学院生だった西村さんは、秋葉原を訪れていました。電器店を出た直後、目の前の人だかりとただならぬ雰囲気に気づきます。うつぶせで倒れている男性を見て、事件だと瞬時に理解しました。男性は腰を刺されていました。
秋葉原の事件現場を訪れ、当時の状況を思い返す西村博章さん(2025年5月23日撮影)
当時、筑波技術大学で理学療法を学んでいた大学2年生だった西村さんは、常に持ち歩いていた救命道具のバッグからゴム手袋を取り出し、男性の止血にあたります。「他にもけが人がいるぞ」という声を聞き、次に駆け寄ったのは若い女性でした。彼女もまた腰を刺されており、西村さんは必死に手で傷口を押さえました。重傷者の手当ては初めてで、極度の緊張から手が震え、力が抜けていくのを感じたといいます。
必死の救命活動と絶望
秋葉原無差別殺傷事件の現場で捜査を行う警視庁の捜査員ら(2008年6月8日撮影)
警察官に促され、西村さんが次に向かった場所では、30歳代の男性が胸を刺され、心肺停止の状態でした。駆けつけた医師らと交代しながら、西村さんは蘇生を信じて心臓マッサージを繰り返しました。しかし、男性の体は懸命な処置にもかかわらず、足先から徐々に冷たくなっていったといいます。目の前で命が失われていく感覚は、彼にとって深い衝撃となりました。
救命への夢と資格
西村さんはかつて、救急救命士になることを夢見ていました。先天的な目の障害でその道を断念した後も「人を助けたい」という強い思いは変わらず、専門学校在学中に独学で応急処置の民間資格を取得するなど、救命に関する知識と技術を積極的に学んでいました。その後、リハビリテーションの専門家である理学療法士を目指し、大学に進学。人の役に立ちたいという彼の思いが、図らずも秋葉原の現場での行動につながったのです。
事件後の自責とPTSD診断
17人が死傷するという未曽有の現場は、西村さんに深い絶望を与えました。事件当日の夜、ニュースで3人目の男性が亡くなったことを知った時、「自分が死なせてしまったのではないか」という激しい自責の念に駆られ、その後しばらくは眠れない日々が続きました。事件から約1か月後、彼は所属していた柔道部の練習に復帰しました。しかし、投げ技をかけられた瞬間、事件当日の光景がフラッシュバックし、頭の中が激しく混乱して涙が止まらなくなりました。この経験から、病院でPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されることになります。事件は、彼の心に消えない傷を残したのです。
秋葉原無差別殺傷事件は、多くの命を奪い、遺族や被害者だけでなく、事件現場で救助にあたった人々にも深刻な影響を与えました。西村博章さんの経験は、こうした事件が社会に与える影響の大きさと、見過ごされがちな救助者たちの精神的負担を浮き彫りにしています。事件から17年を経てもなお、彼の心に残る現場の記憶とPTSDは、私たちが過去の悲劇から学び、安全な社会を築くことの重要性を改めて訴えかけています。