戦時下の早稲田大学を揺るがした言論弾圧:津田左右吉事件と田中穂積総長の決断

東京六大学野球連盟が発足して100年を迎える今年、治安維持法が制定され、言論封殺の影が大学にも及び始めた時代の早稲田大学で起きた重大な事件がある。学徒出陣を控えた1943年の「最後の早慶戦」開催の裏で、早稲田大学の田中穂積総長が直面していたのは、このような困難な時代背景であった。大学を存続させるため、軍部や右翼勢力からの圧力の中で難しい舵取りを迫られた田中総長。その早稲田大学史上最大の言論弾圧とも言われる「津田左右吉出版法違反事件」において、田中総長はいかなる判断を下したのか。この事件は、戦時下の日本の学問の自由がどのように脅かされたかを示す象徴的な出来事である。

早稲田大学のシンボル、大隈講堂:戦時下における津田左右吉事件と田中穂積総長の対応を巡る舞台早稲田大学のシンボル、大隈講堂:戦時下における津田左右吉事件と田中穂積総長の対応を巡る舞台

津田左右吉教授の学説とその攻撃

早稲田大学文学部の津田左右吉教授は、歴史学者として古事記や日本書紀を単なる史実ではなく、時の支配層が国民を統治するための思想を前提とした創作物であると説いた。彼の学説は大正から昭和初期の学会に新風を吹き込んだが、天皇制そのものを否定するものではなかった。しかし、1930年代後半に軍部や右翼勢力が台頭し、「国体」(日本の国家体制)への忠誠を絶対視する風潮が強まる中で、津田の学説は危険視されるようになった。

特に攻撃の急先鋒となったのは、反共雑誌『原理日本』を拠点とする蓑田胸喜であった。蓑田は、津田の著作『古事記及び日本書紀の研究』などを挙げ、その学説が「日本国体を根本的に滅却する」ものだと激しく批判した。これは、同時期に起きた滝川事件(京都帝国大学)や天皇機関説事件に連なる、学問や言論に対する「文化戦争」とも呼べる状況の一部であった。右翼勢力は組織的に津田を排撃するキャンペーンを展開し、内務省や警視庁に対して津田の処分を強く迫った。

東京帝国大学での講義と丸山真男の介入

1939年12月、東京帝国大学法学部に新設された東洋政治思想史講座での津田教授の講義は、異常な雰囲気に包まれた。講義中、普段の聴講生に紛れ込んだ一団が、「先生は東洋文化の存在を否定している」「これは聖戦の否定ではないか」などと同じ質問を繰り返し、詰問調で津田を追い詰めた。動じずに答える津田であったが、この状況を見かねた当時東大法学部助手であった丸山真男が割って入り、無礼な聴講者を叱責し、津田を講師控室へ避難させた。しかし、一団は控室にも押し寄せ、数時間にわたる激しい議論が続いた。丸山はその後、津田を近くの洋食屋に連れ出したが、津田は「ああいう連中がはびこると日本の皇室は危ないですね」と漏らしたという。この一団は、『原理日本』傘下の学生団体メンバーであった。

田中穂積総長の対応と早稲田大学の苦渋の決断

この由々しき事態に対し、早稲田大学の田中穂積総長は迅速に対応した。総長は津田教授と直接面会し、学内では連日対策会議が開催された。軍部や文部省からの圧力が高まる中、早稲田大学は大学自体の存続という危機に直面していた。議論の末、早稲田大学は津田教授の関連する4つの著作を絶版とし、日本関係の講義を取りやめるという苦渋の決断を下した。

津田教授は当初、自身の学問的立場から批判の根拠がないと拒否した。しかし、田中総長が文部省との間で大学を守るために懸命に交渉している様子を察し、これ以上大学、特に総長を窮地に陥らせるべきではないと考え直した。彼は自ら身を引くことを決意した。

津田左右吉教授の辞任とその真意

文部省は最終的に津田教授の辞職を求める決定を下した。これを受け、津田教授は1940年1月に早稲田大学に辞表を提出し、受理された。表面上は大学を辞職した形となった津田は、後にこの時の心境を述懐している。「責任を取って辞めたわけではない。田中総長の立場を思い、身を引いた方がよかろうと考えた」と。これは、彼が自身の学説の正当性を曲げたのではなく、早稲田大学、そして自身を支えてくれた田中総長を守るための献身的な行動であったことを示している。

この津田左右吉事件は、戦時下の日本において、学問や言論の自由がいかに脆弱であり、国家権力やそれに同調する勢力によって容易に抑圧されうるかを鮮明に示した事例である。早稲田大学の田中穂積総長は、大学を守るという重責の中で、苦渋の選択を迫られた。そして津田左右吉教授は、自身の信念と所属する大学への配慮の間で、一つの尊厳ある行動を示したのである。この事件は、今日の日本社会における言論の自由や学術のあり方を考える上でも、重要な示唆を与えている。

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