国民民主党は202X年6月11日、次期参議院選挙の比例代表候補として予定していた元衆院議員の山尾志桜里氏(戸籍名:菅野志桜里)の公認を見送ることを決定した。これに対し、山尾氏は翌12日に同党へ離党届を提出し、自身の見解を述べた2枚にわたる「反論文」を公表した。その中で示された、山尾氏が出馬に至った経緯に関する記述は、世間の一般的な認識とは大きく異なるものだった。今回の公認見送り決定とその後の山尾氏の動きは、国民民主党内外に大きな波紋を広げている。
公認決定を巡る混乱とその経緯
山尾氏の参院選出馬を巡っては、当初から党内で様々な意見があったとされる。山尾氏は反論文の中で、「4月23日に公認が決定した」と主張しているが、国民民主党は同日午前の執行役員会で出馬を決定したものの、同日正午からの両院議員総会では異論が噴出し、一時紛糾したと報じられている。その後、党が山尾氏の「公認内定」を正式に発表したのは5月14日だった。玉木雄一郎代表は、公認発表の前日である5月13日の会見で、候補者に政策などに関する「確認書」をとる方針を表明していた。5月14日の両院議員総会でも、山尾氏の擁立に反対する意見が根強かったが、最終的には玉木代表が「私が決めたことだ」と述べ、押し切ったとされる。前日に表明された「確認書」は、山尾氏の擁立に懐疑的な国民に対する説明材料であると同時に、党内の反対派を抑え込むためのものでもあったと推測される。
国民民主党からの参院選比例代表出馬について記者会見する山尾志桜里元衆院議員
世論の反発と党支持率への影響
しかし、党内を抑え込むことはできても、国民の声を封じ込めることは不可能だった。山尾氏の公認内定が明らかになって以降、国民民主党に対する世論の反発は強く、各種の世論調査では党の支持率が下落傾向を示すようになった。かつては「受け皿」として期待された時期もあった同党にとって、今回の山尾氏を巡る一連の騒動は、国民からの信頼を損ないかねない痛手となった。党執行部が、参院選を目前にしてまで公認見送りに踏み切った背景には、こうした世論の強い反発と、それが選挙に与えるであろう負の影響への危機感があったとみられる。
華々しい経歴と相次ぐスキャンダル
国民民主党から事実上「疫病神」扱いされる形となった山尾氏だが、その経歴は非常に華々しい。幼少期にはミュージカル「アニー」の初代主役を務め、東京大学法学部に進学後、司法試験に合格し検察官となった。政治家としては、2009年の衆議院選挙で初当選。同期当選の玉木氏よりも早くから注目を集め、2016年には「保育園落ちた日本死ね」のブログを国会で取り上げ、待機児童問題を強く追及したことで広く知られるようになった。結成されたばかりの民進党では政務調査会長に抜擢され、2017年には前原誠司代表の下で幹事長に内定されるなど、将来を嘱望される存在だった。
一方で、政治資金を巡る問題やスキャンダルも相次いだ。2016年には多額のガソリン代が政治資金収支報告書に計上されていたことが報じられ、説明に追われた。そして致命的となったのが、2017年に「週刊文春」が報じた弁護士との不倫疑惑だ。この報道を受け、山尾氏は民進党を離党したが、記者会見では声明を読み上げるだけで記者の質問には一切答えなかった。この対応が世間の批判を招き、山尾氏のイメージを大きく損なう結果となった。しかし、同年に行われた衆議院選挙では、逆風の中で3期目の当選を果たした。その後、立憲民主党を経て国民民主党に合流している。
「苦しい時を共にした同志」としての側面
山尾氏が現在の国民民主党の「チャーターメンバー(創設メンバー)」とされるのは、民進党と希望の党が解散・再編された際に、新たに結成された国民民主党に残留したためだ。そうした意味で、玉木代表らにとって山尾氏は、党の苦しい立ち上げ期を共に乗り越えた「苦しいときに同じ釜の飯を食べた同志」だったとも言える。かつては将来の幹事長候補とまで言われた存在が、度重なるスキャンダルや世論の厳しい目に晒され、最終的には所属党の公認すら得られなくなるという今回の事態は、永田町の厳しさと政治家の道のりの困難さを改めて浮き彫りにしている。