横須賀線爆破事件 「父の日」の惨劇

昭和の時代には、社会を震撼させる爆弾事件が相次ぎました。歌手・島倉千代子さん後援会事務所への郵送爆弾、地下鉄銀座線への仕掛け爆弾(草加次郎事件)などが記憶に残っています。近年では、連続企業爆破事件に関与したとされる桐島聡容疑者の死亡も報じられました。これらの事件の中でも特異なものとして知られるのが、今回取り上げる横須賀線爆破事件です。一体どのような事件だったのでしょうか。

「父の日」に発生した惨劇

事件が発生したのは1968年(昭和43年)6月16日、ちょうど「父の日」にあたる日でした。午後3時28分ごろ、国鉄横須賀線の下り列車(横須賀発東京行き)が鎌倉市小袋谷付近を走行中、6両目の後部ドア近くの網棚で時限爆弾が炸裂したのです。この車両には約63名の乗客がいました。古都・鎌倉や近くの海を散策した帰りの人が多かったといいます。

車両内の惨状と犠牲者

爆発は凄まじく、車両内は一瞬にして混乱に包まれました。網棚の下にいた夫婦は、夫が胸に鉄片が刺さり動けなくなり(全治4カ月)、妻は肩や腕に傷を負い「腕がちぎれる!」と叫びながらも夫に避難を促すような状況でした(全治9カ月)。最も悲惨だったのは、東京都武蔵野市の会社員男性(当時32歳)です。飛び散った鉄片が頭部を直撃し、脳挫傷などで同日夜に死亡しました。この他にも30名が重軽傷を負いました。

目撃者の証言からは、その場の恐怖が生々しく伝わります。「鼓膜が破れるようなものすごい音」「爆発点のまわりの人たちが血だらけになって金切り声を上げながら床をはって逃げてきた」「車内はモウモウと煙」といった様子が報告されています(朝日新聞 昭和43年6月17日付より)。

週刊新潮(昭和43年6月29日号)には、爆破された車両に乗り合わせた22歳の会社員の証言が掲載されています。爆発音の後、連結ドア越しに見た光景は、網棚からの白い煙と混乱でした。車両に踏み込むと、頭から血を流した青年がよろめき、網棚は破壊され、天井には多数の穴が。そして、数人が折り重なるように倒れており、手前には悲鳴を上げる老夫婦、その奥にはうつ伏せで動かない男性(後に死亡確認された会社員)の姿があったと描写されています。

横須賀線爆破事件により損壊した国鉄車両の内部横須賀線爆破事件により損壊した国鉄車両の内部

亡くなった会社員男性は、事件の年の4月に娘が生まれたばかりでした。体調不良で逗子の病院に入院していた妻に付き添っており、「父の日」に自宅から娘を見舞い、楽しい時間を過ごした帰り道にこの惨劇に見舞われたのです。搬送先の病院では、妻の悲痛な泣き声が響いたといいます。

全国捜査体制の発動

事件発生を受け、神奈川県警察と警察庁は捜査を開始しましたが、懸念事項がありました。前年には東京駅八重洲口や、山陽電鉄の停車中車両で爆弾事件が発生し、特に山陽電鉄の事件では死傷者が出ていたからです。

これらの広域的な爆破事件の発生状況に加え、横須賀線事件の犯行の性質から、広域的な捜査体制が必要と判断されました。特に神奈川県警が注目したのは山陽電鉄の事件で、奇しくもこの事件も「父の日」に発生していた点が共通していました。

そのため、事件発生の翌日には「指定第107号事件」として、全国的な捜査体制が敷かれることとなったのです。

まとめ

1968年の「父の日」に発生した横須賀線爆破事件は、無差別殺傷を目的とした卑劣な犯行であり、多くの犠牲者と負傷者を出しました。特に、幼い娘の元からの帰路で命を落とした会社員男性の悲劇は、当時の社会に大きな衝撃を与えました。過去の類似事件との関連性や犯行の特異性から、本事件は「指定第107号事件」として全国規模での捜査が展開されることとなりました。この事件は、昭和史における重要な未解決事件の一つとして記憶されています。

参考文献

朝日新聞(昭和43年6月17日付)
週刊新潮(昭和43年6月29日号)
警察庁資料
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