作家・吉田修一が歌舞伎の楽屋での経験を基に描いた同名小説を、李相日監督が実写映画化した『国宝』が注目を集めています。吉沢亮、横浜流星といった人気俳優が出演し、公開後、観客のみならず本職の歌舞伎役者たちのあいだでも大きな反響を呼んでいます。本作は、一人の歌舞伎役者の波乱に満ちた人生を描き出すと同時に、日本の伝統芸能である歌舞伎、そして「芸道」の本質に深く切り込んでいます。この記事では、映画『国宝』が提示する「芸道もの」としてのテーマ、人間国宝という存在の捉え方、そして観客を惹きつける謎めいたラストシーンについて詳細に考察します。なお、本記事には映画『国宝』の結末に関する情報が含まれますのでご注意ください。
吉沢亮と横浜流星が歌舞伎衣装で並ぶ映画『国宝』のポスタービジュアル
映画『国宝』と「芸道もの」というジャンル
本作は、映画ジャンルとしては「芸道もの」に分類されるでしょう。「芸道」とは、和歌、茶の湯、能、歌舞伎、武術など、古くから伝わる日本の伝統芸術や武道を指します。これらの多くは、徒弟制度によって師から弟子へと技術が伝えられ、厳しい修行を経てその分野を極める「名人」を目指します。同時に、連綿と技術を後世に伝え、業界全体の振興を図るという目的も持ち合わせています。歌舞伎は、1603年に京都で始まったとされ、現代まで長く愛され続けている代表的な芸道であり芸能です。映画『国宝』は、この歴史ある歌舞伎の世界を舞台に、一人の人間が芸の道を追求する過程を描きます。
主人公・喜久雄の成長物語:乱世から芸の道へ
物語の主人公、喜久雄は、長崎県の任侠の家に生まれました。幼い頃、雪の降る日に目の前で父親を殺害され、さらに母親をも亡くすという過酷な経験をします。身寄りを失った喜久雄は、以前から彼の芸の才能を見抜いていた歌舞伎役者、花井半二郎(渡辺謙)のもとに身を寄せ、住み込みで稽古を受けることになります。物語は1960年代から始まり、70年代、80年代と時代が移り変わる中で、喜久雄が歌舞伎役者として成長し、歌舞伎界で奮闘する姿を追っていきます。この点において、本作は単なる芸道ものに留まらず、一種の「青春映画」であり、「ビルドゥングスロマン」(成長物語)としての側面も強く持っています。
人間国宝・小野川万菊の存在:「化け物」性と美しさ
喜久雄が「花井東一郎」という名を与えられ、歌舞伎の奥深さや美しさに強く心惹かれ、同時にその深淵に驚愕し、畏怖の念すら抱くようになるのは、「人間国宝」である小野川万菊(田中泯)の舞台を目の当たりにした瞬間からです。喜久雄と、半二郎の息子で後に花井半也となる俊介は、万菊の演じる女形に圧倒され、思わず「化け物や」「そやけど、美しい化け物やで」と呟きます。この「化け物でありながら美しい」という表現は、万菊という存在が持つ畏敬すべき「両義性」を端的に示しています。それは、人間を超越した何か、あるいは人間性の光と影が同居する存在としての芸術家の極致を指しているのかもしれません。
なぜ田中泯が「国宝」を演じたのか?外部視点の効果
本作には、映画俳優としても活躍した二代目中村鴈治郎の孫であり、四代目坂田藤十郎の息子である四代目中村鴈治郎が歌舞伎指導として参加し、出演もしています。しかし、作中の「国宝」役をあえてダンサーである田中泯が演じ、パフォーマンスしている点は非常に興味深い点です。これは、実際の歌舞伎役者が「国宝」という象徴的な役を演じることによる様々な「差し障り」(影響や問題)を避ける意図があったと考えられます。しかし、それ以上に、田中泯という身体表現の専門家がこの役を引き受けたこと自体が、役柄に凄みを与えています。
2023年に日本でリバイバル公開され話題を呼んだ、ダニエル・シュミット監督、坂東玉三郎(後に人間国宝)主演の映画『書かれた顔』(1990年)は、「女性を演じる」という共通項から、歌舞伎などの表現をドキュメンタリーとフィクションを交えながら追求した傑作です。この作品でも、俳優・杉村春子や舞踏家・大野一雄といった歌舞伎の「外部」にいるアーティストたちが、それぞれの視点やパフォーマンスを提供することで、坂東玉三郎が演じる女形の「実像」をより鮮やかに浮き彫りにしていました。
その意味で、本作における田中泯の女形、そして「国宝」としての演技は、たとえ観客が歌舞伎に詳しくなくても、それをある種の「身体表現」という普遍的な言語を通して共に解き明かしていく「触媒」の役割を果たしているように思えます。これは、成長した喜久雄や俊介を演じ、舞台でのパフォーマンスを見せる吉沢亮や横浜流星についても同様ではないでしょうか。つまり、本作は歌舞伎界の「国宝」そのものを具現化して見せるというよりは、「国宝」とまで呼ばれる歌舞伎の名人とは、一体どのような存在なのかという問いを、観客が外部から共に考えていくための映画になっていると言えるのです。
芸の道における「通過儀礼」としての苦難と「流浪」
では、本作において、あの「美しい化け物」へと至る道とは、どのようなものとして描かれるのでしょうか。その一つとして示唆されるのが、「通過儀礼」としての「流浪」の経験です。芸において喜久雄に遅れをとった俊介が、花井家を出て旅芸人として各地を転々とした経験を経て、人間国宝である小野川万菊の指導を受けるに至るという流れは、その後の喜久雄も旅先で差別に遭う場面があるように、かつて「河原乞食」などと卑しめられ差別された、歌舞伎役者が置かれていた厳しい立場を肌身で感じることが、芸の成長の糧になるのだと万菊が読み取ったことを示唆しています。
万菊は俊介の指導をしながら喜久雄を一瞥しますが、この視線は、一日も休まず稽古を続けた喜久雄であっても、芸道においては流浪の経験を経た俊介の方が一段上にいることを示し、「あなたも同様の経験をして、このステージに上がってきなさい」と無言で語りかけているかのようです。もちろん、本作で描かれるように、職業で人間が差別されることは決してあってはならないことであり、苦しい経験をしたから芸達者になるという考え方には根拠が薄弱な側面があります。しかし一方で、子ども時代に強い叱責や体罰によって稽古をつけられた描写もあるように、虐待的な仕打ちを受けた経験のある役者の方が強く成長し、大成するのではないかという、ある種の先入観や歪んだ信仰が、徒弟制度の一部となってきたのもまた事実でしょう。これは、芸というものが時に「宗教」や「マインドコントロール」に近いものとなり得る危うさをも孕んでいることを示しています。
物語を締めくくる「謎めいたラストシーン」への示唆
本作のラストシーンは、観る者に強い印象を残しつつも、ある種の謎や解釈の余地を残しています。それは、主人公・喜久雄が芸の道を極めたその先に見た光景、あるいは抱いた感情を、明確な形で提示するのではなく、観客それぞれの心に委ねるかのような描き方です。この曖昧さは、芸道という終わりのない探求の道のり、そして人間国宝という極みに達することの持つ複雑さ、あるいは先に論じた「美しい化け物」という両義的な存在のあり方を象徴しているのかもしれません。物語全体を通して描かれる、芸への情熱と苦難、伝統と時代の変化、そして師弟関係の光と影といったテーマは、ラストシーンへと収斂し、観客に深い余韻と、芸の道、ひいては人生そのものにおける「極み」とは何か、その先に何があるのかという問いを投げかけます。明確な答えを示さないからこそ、ラストシーンは観る者の心に深く刻まれ、作品についての議論を促すのです。
結論
映画『国宝』は、歌舞伎という日本の伝統「芸道」を題材に、一人の人間が芸の道を歩み、「人間国宝」と呼ばれる存在へと至る過程を深く掘り下げた作品です。過酷な運命を背負った主人公・喜久雄の成長、畏敬すべき「美しい化け物」としての人間国宝像、外部の視点を取り入れたキャスティングの妙、そして芸の道における苦難や徒弟制度の複雑な側面までが描かれます。特に、芸の探求には終わりのないこと、そして極みに達した者だけが知る境地や葛藤があることを示唆する「謎めいたラストシーン」は、本作のテーマ性をより一層深めています。映画『国宝』は、単なる成功物語ではなく、日本の伝統芸能の厳しさ、美しさ、そしてそれを担う人々の人間ドラマを通して、「芸」とは何か、「生きる」とは何かを問いかける、示唆に富んだ一作と言えるでしょう。