〈「人間の手足がちぎれ飛び、血の海で足元が滑るなか脱出を…」20万人が死亡した“沖縄戦”生存者の96歳女性が明かす、“地獄の地上戦”の凄まじい惨状〉 から続く
【衝撃画像】「人間の首から上が木にぶら下がり…」「海の波打ち際にも遺体が転がっていた」20万人が死亡した“地獄の沖縄戦”の凄まじい惨状を写真で見る
太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦の戦場となり、20万人以上の命が失われた「沖縄戦」。影響力の大きい政治家が沖縄戦について発言し、話題を集めたことも記憶に新しい。きょう6月23日は、その沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされている日で、「沖縄慰霊の日」に制定されている。
昭和4年生まれの翁長(おなが)安子さんは、沖縄戦を経験したひとりだ。15歳の時に、地元沖縄の人々で構成された郷土部隊「永岡隊(特設警備第223中隊。中隊長・永岡敬淳大尉)」に入隊し、3か月に渡る“地獄の地上戦”を生き抜いた。沖縄戦では、実際になにが起きていたのか——。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、わずかに残った体験者である翁長さんに取材した。(全2回の2回目/ 1回目 から続く)
◆◆◆
「木の上には首から上がぶら下がっている」戦場の移動中にみた忘れられない光景
昭和20年6月4日、ひとりで南へと歩いていた翁長さんは、伊敷・轟の壕というところで永岡隊長に奇跡的に再会した。隊長は「お前、生きていたのか」とぽろぽろと涙を流して、翁長さんの頭やからだをなでさすった。40名ほどの生き残りとともに糸洲の壕という場所へ移動したが、生き残った男たちは次々に糸満の戦場へ向かい、戻ってくることはなかった。このころが沖縄戦の最終盤にあたっている。
6月15日ごろ、米軍の攻撃に押され、糸洲から喜屋武(きゃん)へ移動するときに見た光景は忘れられない。
「照明弾で明るくなると見えました。ちっちゃな男の子が、死んでいる母のおっぱいのところをババババッと叩いて、起きなさい起きなさいって。母親は、頭が半分割れている。これを見てもね、助けることできないですよね。これが人間の戦争の姿なのかね。木の上には手足がぶら下がってる、首から上がぶら下がっている。年寄りが天秤棒の片方に鍋釜、生活用品を載せて、もう片方には死んだ男の子を入れている。そして直撃弾にあって、畑の畦に倒れていく」
翁長さん自身、その人々と同じ境遇にいた。3人で水を汲みに行ったときに砲撃にあい、一緒に行った2人は即死した。最後、糸満・山城の壕に入る。砲爆撃のために壕外へ出ることはもうできなかった。食料も水もない。岩を口に入れて唾液を出し、鍾乳洞から落ちる水をなめて4日間を過ごした。22日朝、壕内には米軍から投降を呼びかける放送が響いてきた。もう部隊は限界をとうにこえていた。ここで、永岡隊長が口を開いた。