浅間山天明大噴火の灰:蔦屋重三郎が日本橋で直面した歴史的災禍

吉原で小さな書店を営んでいた蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、売れっ子作家を多く抱え、大ヒットを連発。ついに江戸一等地の日本橋に進出する物語は、多くの読者・視聴者の関心を集めています。特に、第24回「げにつれなきは日本橋」(6月22日放送)で日本橋通油町の地本問屋「丸屋」買収に挑み、続く第25回「灰の雨降る日本橋」(6月29日放送)で丸屋を手に入れ、女将の「てい」(橋本愛)と結婚するという展開は注目の的です。この第25回で描かれる、蔦重が丸屋の屋根に上がり瓦の隙間や樋に溜まった灰を取り除いたり、日本橋一帯に降り積もった灰の撤去に尽力したりする姿、そしてそれが「てい」の心を開くきっかけとなる描写は、江戸の町に降り注いだ大量の灰という歴史的事実に基づいています。現在の東京、特に中心部である日本橋に、これほどの灰が降り積もった出来事に不思議を感じる方もいるかもしれません。しかし、蔦重が日本橋に進出するちょうど2カ月前にあたる天明3年(1783年)7月5日、群馬県と長野県の境に位置する標高2,568メートルの浅間山が、史上まれに見る大噴火を起こしていたのです(浅間山天明大噴火)。

浅間山天明大噴火とは? 江戸に灰を降らせた火山活動の猛威

浅間山天明大噴火は、大規模なマグマ噴火でした。まず、火山の周囲は壊滅的な被害を受けました。現在、浅間山の北側にある「鬼押出し」は、この噴火で流れ出た溶岩が冷え固まってできた景勝地です。長さ約5キロメートル、幅1〜2キロメートル、厚さ約30メートルにもおよぶその規模は、当時の噴火がいかに凄まじかったかを物語っています。4月9日に始まった噴火活動は、6月下旬から頻度を増し、天明3年7月5日からは激しい噴火と火砕流が繰り返し発生するようになりました。

天明大噴火当時の浅間山を描いた図(火山灰、噴煙)天明大噴火当時の浅間山を描いた図(火山灰、噴煙)

史上最大級の噴火、その広範な被害

噴火の最盛期は7月7日から翌朝にかけてでした。この時期には、火砕物と火山ガスが勢いよく噴出するプリニー式噴火が発生。マグマの総噴出量は0.5立方キロメートル、これは東京ドーム約403個分に相当する膨大な量です。7月8日の午前には、噴火の爆発音が遠く四国にまで届いたと記録されています。その直後には大規模な土石なだれが発生し、北麓の鎌原村(現在の群馬県嬬恋村)では、全村152戸が一挙に飲み込まれ、483人が犠牲となりました。上野国(現在の群馬県)全体では1,400人を超える死者が出ています。信濃国(現在の長野県)でも、軽井沢では赤く熱した石が降って家々が焼けたり、大量の軽石で家屋が潰れたりする被害が発生。土石なだれは吾妻川や利根川を下り、遠く太平洋や江戸湾にまで到達しました。

成層圏に達した噴煙と地球規模の影響

浅間山の噴煙は地上約10キロメートル以上の成層圏まで上昇しました。これにより、江戸を含む関東平野一帯にも甚大な被害が及びます。広い地域に大量の軽石や火山灰が降り注ぎ、特に偏西風に乗って流された火山灰は、風下側で激しく降下しました。成層圏を覆った噴煙は日射を遮り、地球規模での気温低下を引き起こします。同じ年にアイスランドのラキ火山でも大噴火があったこともあり、北半球全体の年間平均気温が1.3度下がったとも言われています。当時、江戸時代は世界的に小氷期にあたり、現在よりも気温が低い時期でしたが、噴火の影響でさらに低温化が進み、その後の約4年間にわたる天明の飢饉の大きな原因となりました。

しかも、この凶作と社会不安の影響は日本国内にとどまりませんでした。老中として権勢を振るった田沼意次(渡辺謙が演じる)が失脚した背景にも、浅間山の噴火による影響が大きかったと指摘されています。さらに驚くべきことに、この天明大噴火が遠くフランス革命の遠因の一つになったとする説まで存在します。浅間山の噴火は、単なる自然災害ではなく、江戸の町、日本の政治、そして世界の歴史にまで影響を与えた、まさに「歴史を動かした」出来事だったと言えるでしょう。日本橋で蔦屋重三郎が直面した灰は、このように壮大な歴史の一部だったのです。