日本の映画史に名を刻む俳優、三國連太郎と佐藤浩市。父子でありながら、二人の間には長年「確執」が報じられてきた。しかし、その公には見えない関係性の奥には、互いを認め合う、あるいは反発し合うがゆえの複雑な絆があったのかもしれない。今回、コラムニストの峯田淳氏が、日刊ゲンダイでの豊富なインタビュー経験を基に、父・三國連太郎の知られざる一面を明かす秘話を紹介する。それは、名優の演技に対する壮絶なまでの「覚悟」を示すエピソードであり、もしかすると息子・佐藤浩市が「父の背中」として感じ取ってきたものの一端を垣間見せる物語である。
年齢を重ねた俳優・佐藤浩市(左)と晩年の父・三國連太郎(右)の比較写真、確執が報じられた名優親子の複雑な面影
映画『荷車の歌』が描いた壮絶な農村の現実
この秘話は、1959年に公開された山本薩夫監督の映画『荷車の歌』の撮影現場で起きた。広島の山奥の村を舞台にしたこの作品は、貧困にあえぐ一家が荷車を引きながら暮らす過酷な生活を描き出す。嫁姑問題、妾を囲う横暴な夫、そして老いらくの果てに泥田に倒れる男の最期など、明治後期から終戦までの日本の山村が直面した厳しい現実を生々しく映し出している。
主演は、劇団民藝出身で母親役を得意とした望月優子と、後に『飢餓海峡』(1965年)で日本の映画史に金字塔を打ち立てる三國連太郎だった。夫婦の長女を演じたのは、『飢餓海峡』でも三國と共演した左幸子。そして、その少女時代を演じたのが、幸子の実妹である左時枝だった。当時11歳だった時枝にとって、これが女優デビュー作。故郷の富山から突然上京し、何も知らされないままカメラテストを受け、東京や信州での撮影に参加した。
桐箱に入れられていた「驚き」
映画の前半部分で、まだ撮影現場に慣れない少女・時枝は、後の大スターとなる三國連太郎と多くの時間を共に過ごした。三國は常に優しく時枝に接していたという。
あるオフの日、二人は宿のコタツを挟んで向かい合っていた。三國は時枝の目の前に、およそ10センチ四方の桐の箱を置いた。そして、11歳の少女に問いかけたのだ。「お嬢ちゃん、箱の中に何が入っていると思う?」
立派な桐箱を前に、時枝は何が入っているか想像もつかない。「カエルでも入っているのかな。それともカブトムシとか?」と子供らしい答えを返した。
すると三國は、時枝の目の前でその桐箱をパッと開けてみせた。箱の中に入っていたのは、3つか4つの「入れ歯」だった。
名優・三國連太郎が見せた俳優としての「覚悟」
この時の三國連太郎は30代半ば。俳優として必死に道を切り拓き、次代のスターダムを駆け上がろうとしていた時期である。なぜ彼は幼い時枝に、唐突に入れ歯を見せたのだろうか。
実は三國は、この『荷車の歌』で、20歳前後から70歳前後までの50年間を一人で演じ切っていた。若々しい青年期、妻と妾を同居させ家族との軋轢に苦悩する働き盛りの父親、そして最後に老い衰え、泥田に倒れ込む老人。それぞれの年代をリアルに演じるために、形状の異なる複数の入れ歯を用意し、使い分けていたのである。
以前にも、映画『異母兄弟』(1957年)のために自身の歯を10本も抜くという壮絶な役作りを見せていた三國にとって、入れ歯の使用もまた、役になりきるための徹底したアプローチの一つだったのだ。時枝にあの桐箱を見せたのは、おそらく、これから自分がスクリーンの中で演じることになる人物の「老い」という現実、そしてそれに向き合う俳優としての自身の「覚悟」を、偽りなく見せたいという思いからだったのかもしれない。
映画の中で三國が見せた、入れ歯によって口元がもごもごする様子や、倒れた際に微妙に舌が動く描写は、観る者に強烈な印象を残し、その生々しさが役の説得力を高めていた。このエピソードは、文字通り「歯」を食いしばって役と向き合った名優の姿を鮮やかに描き出している。
結論
三國連太郎が少女に見せた「入れ歯」という一見奇妙なエピソードは、彼がいかに役柄の内面だけでなく、外見や肉体の変化までもをも徹底的に追求する俳優であったかを雄弁に物語っている。これは単なる奇行ではなく、観客に真実味のある人物像を届けるための、プロフェッショナルとしての深い洞察と覚悟に根差した行動だったと言える。
父・三國連太郎のこの揺るぎない「俳優としての背中」は、息子である佐藤浩市にどのように映っていたのだろうか。長年語られてきた父子の「確執」の裏には、このような偉大な父の存在と、それに対する息子なりの複雑な感情があったのかもしれない。この秘話は、名優と呼ばれる人々の人間的な深みと、その演技の源泉にある知られざる努力の一端を示すものと言えるだろう。