広島への原爆投下後に降ったとされる「黒い雨」を巡り、その雨を浴びた住民たちが「被爆者」としての認定を求める「第2次黒い雨訴訟」は、戦後80年を迎えようとする現在もなお継続しています。当時の降雨地域にいながらも国の救済対象から外され、健康不安を抱えながらも認定を受けられない人々は、ほとんどが80代から90代という高齢です。提訴後に亡くなった方も少なくなく、彼らからは「時間がない。早い解決を」という切実な声が上がっています。
長期化する「黒い雨」訴訟:被爆者の苦悩と国の対応
「黒い雨」訴訟は、広島原爆の後に広範囲に降ったとされる放射性物質を含む雨が、人体に与える影響と、その被害を受けた人々への国家による救済のあり方を巡る長年の問題です。多くの被爆者が高齢化する中、国による被爆者健康手帳の交付認定基準が依然として厳しく、雨を浴びた具体的な場所が確認できないことを理由に却下されるケースが後を絶ちません。この認定の壁は、被爆者自身の体験や証言が否定されることにつながり、深い苦悩を生み出しています。
大畑忍さんの証言:被爆体験の否定に憤り
80年前の1945年8月6日、当時国民学校4年生だった大畑忍さん(89歳、広島市西区在住)は、原爆の衝撃を今も鮮明に記憶しています。爆心地から西へ約23キロ離れた現在の広島県廿日市市河津原にあった自宅で祖母と畑仕事をしていた際、灰交じりの「黒い雨」が降り、燃えかすの紙片も舞い落ちてきたといいます。柿の木の下で雨宿りをし、黒っぽい灰が付着したトマトを服で拭って食べた経験は、後になってそれが放射性物質を含んでいたと知り、大きな衝撃を受けました。白内障や血小板減少症といった健康被害を経験するたび、「放射線の影響ではないか」という拭い去れない不安を抱き続けています。
2021年、国が救済対象の拡大方針を示したことを受け、大畑さんは被爆者健康手帳を申請しました。しかし、「雨が降ったことが確認できない」という理由で却下されてしまいます。大畑さんは「調査もせずに降っていないことにされ、自分の体験が否定された」と深い憤りを表明。「降ったものは降った。証言を信用してもらわないとどうしようもない。これ以上救済を先送りにしないでほしい」と、速やかな解決を強く訴えています。
河藤雅敏さんの訴え:認定を巡る地域内分断
降雨地域の認定問題は、同一地域内においても被爆者間の分断を生み出しています。当時2歳だった河藤雅敏さん(82歳、広島市安佐南区在住)は、爆心地から北へ約22キロの現在の同市安佐北区大林町にあった自宅の庭で「黒い雨」を浴びたことを、生前の母親から聞かされていました。母親の証言によると、真っ黒な大きな雲が押し寄せ、大雨が降り、ずぶ濡れになって大泣きする河藤さんを抱きかかえて家の中に入れたとのことです。
2023年に被爆者健康手帳を申請した河藤さんは、学校も地域活動も一緒だった同級生が同時期に申請し、認定されたと聞きました。期待して届いた通知を開くと、そこには「却下」の文字が。河藤さんは「一瞬自分の目を疑った。なぜ、と絶句した」と語ります。市からは、却下の理由について納得できる説明は得られていません。「ちょっとの場所の違いで、ばかにされている。もう年で、時間がない。どうにか救済できないのか」と、河藤さんはその胸の内をつぶやきました。
広島の被爆者、大畑忍さんが「黒い雨」降雨時の状況を説明する様子
救済の「時間がない」:高齢化する被爆者たちの切実な願い
「黒い雨」訴訟が長引く中で、原告である被爆者たちは、みな高齢という時間との闘いを強いられています。彼らが望むのは、健康被害への不安からの解放と、自身の被爆体験が正当に認められることです。同じ経験をしたにもかかわらず、行政の線引きによって救済の対象から外される現状は、彼らの心に深い傷を残しています。
被爆者たちの残された時間が少ない中、一刻も早い救済と、彼らの尊厳を重んじた公正な判断が強く求められています。この訴訟は、単なる法的な争いにとどまらず、戦争の記憶と向き合い、被爆者一人ひとりの人生に寄り添う社会の責任を問い続けています。
参考資料
- Yahoo!ニュース: 「黒い雨」訴訟、戦後80年迫りなお継続=被爆者「時間ない」と訴え (https://news.yahoo.co.jp/articles/914e06be529f1505cc2a95a236cecdd3356724ae)