ドナルド・トランプ前米大統領が7月の雇用統計発表後に労働省労働統計局(BLS)長の解任を命令したことは、独立した政府機関に対する前例のない政治介入として波紋を広げています。これは単に政治的な圧力にとどまらず、トランプ氏にとって戦略的に大きな失策であり、米国の経済指標に対する信頼性と将来の政策不確実性を高めるものと見られています。過去半年間にわたり米連邦準備理事会(FRB)、特にパウエルFRB議長に対し利下げをしないことを理由に攻撃を続けてきたトランプ氏の行動は、今回の労働統計局長解任でその構図がさらに鮮明になりました。
トランプ米大統領の労働統計局長解任、米経済信頼性と政策不確実性への影響
雇用統計が示す「利下げの根拠」とトランプ氏の主張
7月の雇用統計は、特に5月と6月の非農業雇用者の伸びが合計25万8000人も下方修正され、大方の予想よりも低調な内容でした。ゴールドマン・サックスによると、全米経済研究所(NBER)が景気後退期と判定した局面を除くと、2カ月分の下方修正としては1968年以降で最大規模を記録しました。この発表は金融市場に劇的な反応を引き起こし、FRBの利下げ期待が急速に高まりました。2年国債利回りは1年ぶりの急低下を記録し、ドルも大幅に下落しました。
金利先物の値動きは、9月と12月にそれぞれ25ベーシスポイント(bp)の利下げがほぼ確実視される展開となり、パウエル議長が7月30日の連邦公開市場委員会(FOMC)終了後の会見で示したタカ派姿勢、すなわち年内利下げはないとの観測から180度転換しました。パウエル議長が主に労働市場の「しっかりとした」状況を理由に利下げに慎重な態度を維持してきた中で、その労働市場の堅調さが揺らいでいる様子が示されたことは、トランプ氏の一貫した「利下げが遅すぎる」という批判ににわかに根拠を与え、トランプ氏が「私が正しく、パウエル氏が間違っていた」と主張できる好機でした。
証拠なき解任命令と「暗黒の日」の到来
しかし、トランプ氏はその好機を生かすどころか、7月1日午後、何の証拠も示さずに雇用統計が政治的に操作されていると主張し、ウィリアム・マッケンターファー労働統計局長の解任を命令しました。市場がすでにトランプ氏の考えに沿って利下げが必要だという結論に達していたにもかかわらず、この行動はエコノミスト、アナリスト、投資家をトランプ氏への非難で一致団結させる事態を招きました。彼らが糾弾したのは、自らが「自由世界の指導者」と自認する国よりも、開発途上で政情が不安定な国で起こりがちな、恥知らずの政治的介入でした。
経済学者のフィル・シャトル氏は7月1日に「米国にとって暗黒の日がやってきた。これは最悪の新興国経済において最悪のポピュリストしかしない行為で、トランプ氏流に表現すれば(影響は)『どこまでも続く』」と述べ、トランプ氏の行動が米国の基盤を揺るがす深刻な事態であることを指摘しました。
米経済指標の信頼性と「米国例外主義」への影響
雇用者数の歴史的な下方修正は、必ずしも基調的なデータ収集の欠陥を意味するわけではありません。イェール大学予算研究所のアーニー・テデスキ氏が先週末にXで主張したように、これまでBLSの非農業雇用者に関する最初の推計は、時間の経過とともに正確性が低下するどころか、むしろ高まっています。この点を指摘することは非常に重要です。
労働統計局は雇用統計だけでなく物価統計も集計しており、今後米国、そして恐らくは世界全体にとって最も重要なこれらのデータに対する信頼性に重大な疑念が生じかねない点に留意する必要があります。「米国例外主義」の構成要素には、独立的な機関の専門家たちが文字通り独立性を保持しており、彼らの行動や分析結果はどのような内容であれ信頼に足るという前提が含まれています。しかし、トランプ氏による労働統計局やFRB、その他政府機関への根拠なき攻撃は、政治的な動機に基づく判断を生み出し、政権に打撃を与え、ひいては米国自体の信頼性を損なうだけです。
外交問題評議会のレベッカ・パターソン上席研究員は、「疑念が尾を引けば、投資家は米国資産保有に際してより高いリスクプレミアムを要求する。これは資産価値を左右する多くの要因の1つに過ぎないとはいえ、市場全般のリターンを制約するだろう」と述べており、不確実性の高まりが実体経済に悪影響を及ぼす可能性を示唆しています。
今後のFRBと政策不確実性の展望
この騒動と同時に、8日のFRBのクグラー理事退任に伴い、トランプ氏には来年5月に任期満了となるパウエル議長の後任を含め、新理事を指名する機会が訪れています。誰が起用されるにしても、これまでのFRB議長への批判の経緯から、タカ派よりもハト派的な人物が指名される可能性が高いと見られています。
4月2日の「相互関税」公表以降、徐々に後退する方向にあった政策を巡る不確実性ですが、足元でトランプ氏の行動によって投資家の視野に再び大きな存在として浮かび上がっています。これは、米国の経済政策の安定性に対する懸念を増幅させる要因となるでしょう。
結論
トランプ前大統領による労働統計局長解任の命令は、単なる一過性のニュースではなく、米国の独立機関の健全性、経済指標の信頼性、そして国際社会における米国の信頼性という根幹に関わる問題提起となりました。彼の行動は、短期的な政治的勝利どころか、長期的な観点で見れば、米経済に不確実性をもたらし、市場の安定性を揺るがしかねない大きなリスクをはらんでいます。今後のFRBの人事や経済政策の動向は、このような政治的介入が米国の経済基盤にどのような影響を与えるかを示す試金石となるでしょう。
参考文献
- ロイター通信 (https://news.yahoo.co.jp/articles/16e6b74e78848da3418537afbdbbc3c51309eb28)
- Jamie McGeever, Reuters Columnist.