元航空兵の証言:真珠湾攻撃「ハワイで死ぬ覚悟」と謎の指示

1941年12月の真珠湾攻撃は、太平洋戦争開戦の引き金となりました。日本海軍の空母「蒼龍」に乗艦していた元航空兵の吉岡政光氏(当時)は、ハワイでの死を覚悟したといいます。ノンフィクション作家・早坂隆氏の著書『戦争の肖像 最後の証言』では、当時の兵士たちが直面した非日常の現実と、その心情が克明に描かれています。本稿では、吉岡氏の貴重な証言から、真珠湾攻撃前夜の緊迫した状況と、これまであまり語られてこなかったある指示の真意に迫ります。

1941年真珠湾攻撃の際、フォード島沖で日本海軍の雷撃により着底したアメリカ海軍戦艦カリフォルニアの様子1941年真珠湾攻撃の際、フォード島沖で日本海軍の雷撃により着底したアメリカ海軍戦艦カリフォルニアの様子

千島列島、択捉島への集結と秘匿された任務

1941年11月22日、吉岡氏が乗艦する空母「蒼龍」は、他の艦船と共に人知れず港に入港しました。見慣れない雪を抱いた山並みに、吉岡氏は「どこだろう」と訝しんだといいます。その場所こそ、現在は北方領土として知られる千島列島、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾でした。真珠湾攻撃へと向かう機動部隊が、極秘裏に集結していたのです。静寂に包まれた湾内には、まもなく歴史を動かすことになる大艦隊が揃い、開戦の号令を待っていました。

南雲中将の訓示と吉岡氏の「死の覚悟」

翌23日、「蒼龍」艦長である柳本柳作大佐から、艦隊司令官・南雲忠一中将の訓示が代読されることになりました。その骨子は「アメリカに対し、12月8日を期して開戦する」「当艦隊はハワイを空襲する」という、まさに衝撃的な内容でした。吉岡氏はその瞬間を、「頭の血がデッキに吸い取られるような気がしました。『もうこれは帰れない。ハワイで死ななくちゃならんな』と」振り返っています。しかし、そこには恐怖はなく、「良い死に場所を与えてもらった」と感じるほどの、悲壮なまでの覚悟があったといいます。この言葉は、当時の兵士たちが背負っていた重い使命感を物語っています。

「燃料タンク攻撃せず」の真意が明らかに

訓示の後、真珠湾の詳細な地図や米軍艦船の識別表、さらにはオアフ島の模型を用いた具体的な攻撃指示が与えられました。吉岡氏が特に印象に残っているのは、燃料タンクと火薬庫の場所を教えられた際、「ここは占領後に使うかもしれないから、攻撃してはいけないよ」と指示されたことでした。

現在、真珠湾攻撃を巡っては、「なぜ、戦略的に重要な燃料タンクを攻撃しなかったのか」という疑問や批判がしばばしば提起されます。この吉岡氏の証言は、当時の日本軍が真珠湾攻撃を短期的な航空作戦と位置づけるだけでなく、その後のハワイ占領まで視野に入れていた可能性を示唆しており、長年の歴史的疑問に対し、新たな視点と貴重な回答を与えるものと言えるでしょう。

吉岡政光氏の証言は、単なる一兵士の回顧録に留まらず、歴史の空白を埋め、当時の作戦立案の背景にまで迫る重要な示唆を含んでいます。このような第一級の資料は、私たちが過去から学び、未来を考える上で不可欠なものです。