日本の「スパイ防止法」議論の最前線:邦人拘束、制定機運と運用課題を専門家が解説

アステラス製薬の日本人男性社員が中国で実刑判決を受けた事件は、改めて日本の防諜体制の脆弱性を浮き彫りにしました。7月の参議院選挙では「スパイ防止法」の制定を主張する参政党や国民民主党が躍進し、中国などで拘束された邦人の解放に向けた「スパイ交換」の可能性まで議論されるなど、同法制定への機運がかつてないほど高まっています。本記事では、この喫緊の課題を巡る情勢と今後の見通しについて、日本・世界の防諜問題に精通し、警視庁公安部で諜報事件の捜査経験を持つ日本カウンターインテリジェンス協会・稲村悠代表理事の見解を深掘りします。

「スパイ防止法」制定への高まる機運と議論の焦点

参政党や国民民主党に加え、自民党や日本維新の会も「スパイ防止法」制定に前向きな姿勢を見せており、その機運は着実に高まっています。しかし、稲村代表理事は、具体的な保護対象、構成要件、罰則といった肝心な部分の議論が未だ煮詰まっていないと指摘します。また、一部で見られる排他的な議論姿勢にも懸念を示しており、多様な意見に耳を傾ける重要性を強調しています。法律の必要性自体には異論がないものの、その実効性や国民の権利とのバランスをどう取るかが問われています。

多様化する外国勢力の工作活動と法整備の課題

現代の外国勢力による工作活動は、単なる機密情報の収集に留まりません。政治的誘導や選挙介入など、その手口は多様化かつ巧妙化しており、過去に廃案となった「スパイ防止法」の構造では対処しきれない側面も存在します。稲村代表理事は、このような現状に対応するためには、米国に既に存在する「外国代理人登録制度」のような枠組みを設けることや、2023年に制定された英国の「国家安全保障法」のように、スパイ防止に関する規定を包括的に網羅した法律の導入も議論すべきだと提言します。これにより、多角的な脅威に対処するための法的基盤を強化できる可能性を探る必要があります。

参議院選挙の当確ボード前でポーズを取る国民民主党の玉木雄一郎代表(左)と榛葉賀津也幹事長。スパイ防止法制定に前向きな姿勢を示す政党の代表。参議院選挙の当確ボード前でポーズを取る国民民主党の玉木雄一郎代表(左)と榛葉賀津也幹事長。スパイ防止法制定に前向きな姿勢を示す政党の代表。

機密情報保護という点では、日本の安全保障に関わる重要情報を保護する「特定秘密保護法」や、営業秘密を対象とする「不正競争防止法」が既に存在します。特に特定秘密保護法第24条は、外国の利益を図る目的などで秘密を取得しようとした者への罰則を定めており、稲村代表理事は、これに探知・収集行為などを盛り込み、既存の法律を改正するアプローチも有効な手段となりうると示唆しています。

記者会見でスパイ防止法制定を主張する参政党の神谷宗幣代表。参院選での躍進により同法への議論が高まる。記者会見でスパイ防止法制定を主張する参政党の神谷宗幣代表。参院選での躍進により同法への議論が高まる。

法律制定だけでは「絵に描いた餅」?執行権強化の重要性

稲村代表理事は、法の中身だけでなく、それを実効的に運用する「執行権の強化」こそが、さらに重要だと力説します。どれほど優れた法律が制定されても、当局が十分な証拠を収集できず、立件に至らないのであれば、それは「絵に描いた餅」に過ぎません。この課題を克服するためには、捜査機関の強化、予算の拡充、おとり捜査の対象拡大、行政通信傍受の整備、さらには「対外情報機関」の創設といった、踏み込んだ議論が不可避であると指摘されています。適切な法執行を行うための運用面での課題も多岐にわたるため、法律制定の是非やそのあり方を議論する際には、こうした全体の構図の中で総合的に検討していく必要があるでしょう。

中国で実刑判決を受けたアステラス製薬の日本人男性社員の件で厳しい表情を見せる金杉憲治駐中国大使。日本のスパイ防止法議論の背景にある邦人拘束事件を象徴。中国で実刑判決を受けたアステラス製薬の日本人男性社員の件で厳しい表情を見せる金杉憲治駐中国大使。日本のスパイ防止法議論の背景にある邦人拘束事件を象徴。

アステラス製薬社員の拘束事件を契機に、日本の「スパイ防止法」制定に向けた議論は、政治的にも国民的にも大きな関心を集めています。しかし、単に法律を制定するだけでなく、その内容を現代の多様な脅威に対応できるものとし、さらに実効的な運用を可能にするための「執行権の強化」が不可欠であると、専門家は警鐘を鳴らしています。日本の安全保障を守り、国民の生命と財産を保護するためには、法整備と運用体制の両面から、複合的かつ戦略的なアプローチが求められていると言えるでしょう。


参考資料