日航機墜落事故40年:御巣鷹の尾根で自衛隊員が見た「地獄」と心のケアの進化

昭和60年(1985年)8月12日に発生した日本航空123便墜落事故は、未曽有の大惨事として日本の歴史に深く刻まれました。群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落したジャンボ機には524人の搭乗者がいましたが、生存者はわずか4人。この壮絶な現場で遺体収容や捜索救助活動に当たった陸上自衛隊員たちは、筆舌に尽くしがたい光景を目の当たりにしました。当時26歳で現場に投入された岡部俊哉元陸将(66)は、「思わず息をのむ悲惨な状況だった」と振り返り、その後の自身の心に深い傷が残ったことを証言しています。現在、自衛隊は災害派遣における隊員の心理的負担を軽減するため、専門人材を配置し、心のケアに力を入れていますが、当時の状況は大きく異なりました。

御巣鷹の尾根、壮絶な現場の記憶

陸上自衛隊の部隊が御巣鷹の尾根に到着したのは、事故発生から一夜明けた8月13日の午前でした。ヘリコプターから降り立つと、そこはまさに「戦場」と形容すべき凄惨な光景が広がっていました。機体の残骸は足の踏み場もないほど散乱し、その間にちぎれた手足がまぎれていました。急斜面を登る際、思わず掴んだ木の枝には、犠牲者のものと思われる血が真っ赤にこびりついていたといいます。

日航機墜落事故発生から40年、御巣鷹の尾根で捜索活動を行う陸上自衛隊員たち日航機墜落事故発生から40年、御巣鷹の尾根で捜索活動を行う陸上自衛隊員たち

内臓が飛び散った岩、黒焦げの遺体、そして五体が揃った遺体は一つも見当たらず、現場の悲惨さを物語っていました。テーマパークからの帰りだったのか、子供の小さな手と、きれいに残されたぬいぐるみが散らばる様子は、残酷な現実を突きつけ、岡部氏の胸を引き裂くようだったと語ります。当時、いつか直面するかもしれない「戦場」の様相を思わせる現場に、「職業を間違えた」とまで感じたといいます。仲間や部下が目の前で傷つき、命を落とすような状況で冷静に指揮を執る自信が持てませんでした。毛布で遺体を包む作業には徐々に慣れたものの、遺体の異臭や焦げ臭さが漂う中で仮眠を取り、約48時間にも及ぶ作業を続けた日々は、精神に大きな負担をかけていました。

しかし、異変に気づいたのは任務を終えて2、3日後でした。肉を食べようとすると吐き気を催し、暗闇に対して異様な恐怖を感じるようになったのです。自宅の全ての電灯を点けても眠れず、ウイスキーをあおってようやくまどろむと、窓の外に人々の列が見えるように感じられました。それは、ヘリコプターで運び出した百数十人の犠牲者の幻だったといいます。

「急性ストレス障害」と孤立

岡部元陸将が、自身の経験した症状が「急性ストレス障害」(ASD)であったと知ったのは、随分後のことでした。当時、「精鋭無比」の異名を持つ第1空挺団を主任務とする空挺作戦の過酷な訓練を経験していた彼は、同様の症状を訴える部下がいたにもかかわらず、「俺は大丈夫だ」と虚勢を張り、我慢し続けました。誰にも相談することなく、一人でもんもんと苦しんでいたのは、自身のプライドが許さなかったからだと振り返ります。幸いにも症状は1カ月ほどで自然に消えましたが、この経験は彼の心に深く刻まれました。

自衛隊における心理ケアの現在

日航機墜落事故のような未曾有の災害や、海外派遣といった「有事対応」において、自衛隊員の精神的な健康は極めて重要な課題です。岡部元陸将が経験した時代とは異なり、現在の自衛隊では、隊員の心のケアに対する認識と体制が大きく進化しています。専門のカウンセラーや精神科医が部隊に配置され、任務遂行中に受ける精神的ストレスへの対処や、急性ストレス障害(ASD)や心的外傷後ストレス障害(PTSD)といった症状の早期発見、そして適切なサポートを提供するための取り組みが進められています。このような支援体制の整備は、隊員たちが過酷な任務を遂行する上で直面する心理的な困難を乗り越え、長期的なキャリアを維持するためにも不可欠です。

日航機墜落事故から40年近くが経過し、当時の生存者捜索にあたった自衛隊員の証言は、災害派遣の現場で働く人々の心に深い影響が残ることを改めて浮き彫りにしています。この貴重な経験と教訓は、将来起こりうるあらゆる「有事」に備え、自衛隊員をはじめとする救助に携わる全てのプロフェッショナルの心の健康を守るための、重要な指針となっています。


参考文献