カンボジア・タイ国境紛争:歴史的背景とナショナリズムの波

カンボジアとタイの国境地帯で発生した武力衝突は、数十名の死者と数万規模の避難民を出す深刻な状況に至りました。この対立の根底には、長年くすぶり続けてきた領有権問題に加え、近年顕著になりつつある経済格差、そして両国の間で高まるナショナリズムが複雑に絡み合っています。旅行作家の下川裕治氏が現地からの報告を交え、紛争の深層を解説します。

国境紛争の勃発と緊張の背景

2025年7月28日、マレーシアなどの仲介により、カンボジアとタイの国境紛争は一応の停戦合意に達しました。しかし、その後も小規模な衝突が散発的に発生し、国境地帯では依然として緊張状態が続いています。国境情勢の悪化が表面化したのは5月下旬頃からで、7月下旬に紛争はエスカレートしました。

しかし、今年の2月の時点で、カンボジアのアンコールワットがあるシェムリアップでは、すでに不穏な情報が飛び交っていました。「まもなく国境が閉まるだろう。持病のある人は早めにタイ側のスリンにある病院に行った方がいい」。タイとカンボジアは800キロメートルを超える広大な国境を共有しており、多くの通過地点があります。シェムリアップからタイのスリンまでは車で約5時間ほどの距離で、スリンの病院に通院するカンボジア人は少なくありませんでした。この国境閉鎖の噂の根拠には、当時、国境周辺で起きたあるトラブルがありました。それは、国境からタイ側へ数十メートル入った地点に建つクメール寺院「プラサート・タ・ムエン・トム」に、カンボジア軍が侵入し、カンボジア国歌を歌ったというものです。これに対しタイ側が強く抗議しましたが、カンボジアの人々は、この事件が偶発的なものではなく、自国のナショナリズムを刺激する意図的な行動であることに敏感に反応していました。まるでその後の紛争の展開を予見するかのように。

プノンペンで行われたカンボジア・タイ国境紛争に対する平和行進の様子プノンペンで行われたカンボジア・タイ国境紛争に対する平和行進の様子

プレアビヒア寺院を巡る歴史と紛争の火種

タイとカンボジアの国境問題は、1863年にフランスがカンボジアを植民地化した時代にその源を発します。カンボジアが独立した後も、タイとの国境線は曖昧なまま残されていました。今回の主要な係争地の一つに、プレアビヒア寺院があります。これは崖の上に位置する壮大な寺院遺跡で、第二次世界大戦後にはタイが実効支配していました。しかし、独立したカンボジアはこれを自国領と主張し、国際司法裁判所(ICJ)に提訴しました。その結果、1962年にICJはカンボジア領であるとの判決を下し、タイはこの判決を受け入れました。しかし、この裁定は両国間の紛争の火種を完全に消し去るものではありませんでした。

筆者は1991年に、このプレアビヒア遺跡をタイ側から訪れた経験があります。当時の入り口ではパスポートの提示と拝観料の支払いが求められる形式でした。長い石段を登りきると、遺跡の中心部がありましたが、その周囲にはポル・ポト派の兵士と称される人々が駐屯していました。彼らは近くで獲れたイノシシの肉をタイ人観光客に販売しているような状況でした。遺跡に入る前、地元の人々からは「ポル・ポト派は危険だが、皆で一緒に行けば怖くない」と忠告されたことを覚えています。

2008年、このプレアビヒア寺院がカンボジアの世界遺産として登録されたことは、タイ側の激しい反発を招きました。この登録以降、タイ側からこの遺跡に立ち入ることは、以前よりも困難な状況になっています。こうした歴史的経緯と、文化的・精神的な価値を持つ遺跡を巡る問題が、現在の国境紛争に深く影響を与えているのです。

タイのセブン-イレブンに被弾したカンボジア軍のロケット弾の被害現場タイのセブン-イレブンに被弾したカンボジア軍のロケット弾の被害現場

紛争の根深さと今後の展望

カンボジアとタイの国境紛争は、単なる領土の争いにとどまらず、両国の歴史認識、経済発展の格差、そして近年高まるナショナリズムが複雑に絡み合った根深い問題です。プレアビヒア寺院を巡る問題が象徴するように、過去の植民地時代から引き継がれた曖昧な国境線は、現在に至るまで不安定要素として存在し続けています。

両国間の停戦合意は一時的な緊張緩和には貢献しましたが、根本的な解決には至っていません。今後、国際社会の継続的な仲介と、両国政府による粘り強い外交努力が不可欠となるでしょう。平和的な解決には、単なる領土の線引きだけでなく、歴史的・文化的背景を深く理解し、互いのナショナリズムを尊重しつつも、共存の道を探る視点が求められます。この地域の安定は、東南アジア全体の平和と発展にとっても極めて重要であり、今後の動向が注視されます。

参考資料