日航機墜落事故40年:パイロットの誓いと、空の安全への継承

1985年8月12日、日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落し、520人の尊い命が失われた事故から、今年で40年の節目を迎えます。この悲劇でいとこの客室乗務員を亡くした田中栄さん(58)は、その後にパイロットとなり、現在も「空の安全」への誓いを胸に、御巣鷹山へ登り続けています。彼の体験と安全への決意は、事故の記憶を次世代へ継承する重要なメッセージとなります。

TBS NEWS DIGによる日航機墜落事故40年の報道TBS NEWS DIGによる日航機墜落事故40年の報道

悲劇の記憶:日航機墜落事故と亡きいとこ

田中さんは当時、三重県で帰省中、10歳年上のいとこである日本航空の客室乗務員、藤田香さん(当時28)が事故機に搭乗していたことを知りました。「まさか、いとこが乗っていないよなと思いながら、ずっと乗員乗客名簿を見ていました。名前を見つけて無念というか、大変なことになったと」と当時の心境を語ります。香さんは高校卒業後上京し客室乗務員となり、あの運命の日、123便に搭乗していました。当初は体の一部しか見つかりませんでしたが、約1か月後、制服姿の遺体が見つかり、ようやく本人と確認されました。田中さんは、香さんが高校生の自分に客室乗務員の仕事について語ってくれたこと、また事故の直前、東京ディズニーランドへ行く約束が仕事で果たせず、「行けなくてごめんね。今度ゆっくり会おうね」と交わした最後の会話を鮮明に記憶しています。香さんは「仕事が生きがい」と話しており、その生き方に田中さんは憧れを抱いていました。

パイロットへの道:父の反対を乗り越えて

事故からおよそ2年後、慶応大学に在学中だった田中さんは、両親に内緒で航空大学校を受験しました。パイロットになるという決意でした。合格を父親に報告すると、「飛行機は100%安全じゃない。その世界だけはダメだ」と厳しく反対されたといいます。それでも田中さんの固い意志は変わらず、「命を落とすことはしません」という念書を書き、自身の覚悟を示しました。そして1991年、航空会社に入社。日本航空を含む複数の航空会社で経験を積み、現在は新潟県を拠点とする航空会社「トキエア」で機長を務めています。機長としてのキャリアは20年以上に及び、田中さんもまた、香さんのようにパイロットの仕事を「生きがい」としています。

機長の「不思議な体験」:安全への深い誓い

田中機長は、日本航空で機長を務めていた2010年の夏、ある“不思議な体験”をしたと明かします。それは、事故で欠番となった123便と同じ夕方の羽田発大阪伊丹行きの便を運航していた時のことでした。上空で、当時123便がたどった航跡が見えたかのような感覚に襲われ、動揺を覚えたといいます。しかし、「このフライトのためにパイロットになったんだ」と自身を奮い立たせ、心の中で「この飛行機を伊丹まで安全に運航する」と、亡き香さんに約束しました。この経験は、田中機長の「空の安全」への決意を一層強固なものにしました。

御巣鷹山へ:40年の時を超え、空の安全を誓う

日航機墜落事故から40年という長い歳月が流れましたが、田中栄さんのように、悲劇を乗り越え、その記憶と教訓を未来へと繋ぐ人々がいます。毎年、御巣鷹山に登り続ける田中さんの姿は、決して風化させてはならない「空の安全」への誓いと、犠牲となった方々への追悼の念を表しています。彼の強い決意と実践は、私たちに命の尊さと安全への絶え間ない努力の重要性を訴えかけています。

Source: TBS NEWS DIG Powered by JNN