沢田研二は、1960年代後半から1980年代にかけて数々のヒット曲を生み出し、日本の音楽界そして芸能界の頂点に君臨し続けました。「君だけに愛を」(ザ・タイガース)からソロとしての「危険なふたり」(1973年)、「時の過ぎゆくままに」(1975年)、「勝手にしやがれ」(1977年)、「TOKIO」(1980年)など、彼の楽曲は記録的なセールスを誇るだけでなく、その革新的なパフォーマンスと独自の演出、そして一本筋を通した生き様で、多くの人々の記憶に深く刻まれています。本連載では、日本の芸能史における「ジュリー」こと沢田研二の真の存在意義とは何か、そして彼が社会にもたらした影響について、その輝かしい軌跡を辿りながら多角的に紐解いていきます。今回は、昭和を代表するスーパースターがどのように誕生したのか、その原点に迫る第1回です。
ソロアーティストとして輝く沢田研二、1973年の魅惑的なまなざし
京都からスターダムへ:野球少年が掴んだ音楽の道
沢田研二は1948年6月25日、京都市左京区に生まれました。俳優を志した自由な父と、優しくおしゃれな母の深い愛情を受け、兄や妹と共に伸びやかに育ちました。少年時代は野球に夢中で、中学時代には野球部のキャプテンを務めるほどの熱血ぶりを発揮。しかし、高校に進学すると野球部が弱小だったため空手部に入部しますが、やがて彼の興味は音楽へと移っていきます。
四条河原町のジャズ喫茶「ベラミ」や四条松原のダンス喫茶「田園」に入り浸るようになり、17歳で地元のバンドにバンドボーイ(ローディー)兼ボーカルとして加入。この頃の経験が、後のキャリアの土台を築きました。
ファニーズからザ・タイガースへ:GSブーム前夜の躍動
まもなく、岸部修三(現・岸部一徳)らからの誘いを受け、1966年の年始からは「ファニーズ」のボーカルとして本格的なバンド活動を開始しました。当時、ザ・ベンチャーズなどのエレキサウンドや、ザ・ビートルズ、ローリング・ストーンズといったブリティッシュロックが人気を博し、グループサウンズ(GS)ブームの到来を予感させる時代でした。
全国各地で多くのロックバンドが次々と登場する中、沢田研二率いる「ファニーズ」もその一つでした。メンバー全員が楽器を始めてわずか1年にも満たず、演奏技術は未熟だったと言われています。しかし、彼らの洗練されたルックスと、ステージ上で見せる圧倒的にパワフルなパフォーマンスは瞬く間に話題を呼び、人気はまさにうなぎ登りとなりました。
その勢いは止まらず、1966年2月には関西一のジャズ喫茶として知られた大阪・難波の「ナンバ一番」の専属バンドとして出演。同年5月には京都会館で開催された「全関西エレキバンド・コンテスト」で優勝を飾る快挙を成し遂げます。さらに9月には、彼らの才能を見抜いた内田裕也の紹介で渡辺プロダクションのオーディションに合格。そして11月には、すぎやまこういちによって「ザ・タイガース」と命名され、翌1967年2月5日にはシングル「僕のマリー」で待望のレコードデビューを果たし、日本の音楽シーンに新たな歴史を刻むことになります。
まとめ
沢田研二は、京都の野球少年から日本の音楽シーンを席巻するスーパースターへと、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで駆け上がりました。その類稀なる才能と、時代を捉える鋭い感性、そして見る者を惹きつけるカリスマ性が、グループサウンズというムーブメントの中で鮮烈に開花したのです。彼のデビューは、日本の芸能史に新たな一章を開き、後の音楽文化に計り知れない影響を与えました。この連載を通して、ジュリーがどのようにして時代の象徴となり、なぜ今なお多くの人々を魅了し続けるのか、その秘密を探っていきます。