秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまの一家4人が7月11日、東京都目黒区にある東京都写真美術館を訪れ、「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を熱心に見学されました。1945年8月6日、米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」によって広島市に投下された原子爆弾は、同年12月末までに推定約14万人の命を奪いました。また、その3日後の同年8月9日には、米軍B29爆撃機「ボックス・カー」が長崎市に原爆を投下し、甚大な死傷者を出して街を焦土と化しました。今年は、広島と長崎への原爆投下から80年の節目の年に当たります。ご一家の今回の訪問は、戦争の記憶を次世代へと継承し、平和の尊さを改めて心に刻む重要な機会となりました。
秋篠宮ご一家が武蔵陵墓地を参拝される様子。被爆80年という節目の年に平和への思いを新たにする公務
「ヒロシマ1945」企画展の概要とご一家の深い関心
今回の企画展は、中国新聞社など報道機関5社が主催し、各社のカメラマンや市民が撮影した原爆投下直後の写真約160点と映像2点を公開しています。展示は「きのこ雲の下で〜8月6日の記録〜」や「焦土の街 人間の悲惨〜あの日から1カ月〜」といったコーナーに分かれ、来場者は被爆の実相を目の当たりにすることができます。
佳子さまたちは担当者からの説明を受けながら、原爆投下後の市街地の様子や、激しいやけどを負った市民の写真などを、終始真剣な表情で見て回られました。秋篠宮さまは、爆心地から2.2キロ地点で撮影された写真に注目し、さらに放射線が人体に及ぼす影響について説明を受けながら、「かなり爆風が強かったんですね」「やはり核はなくならないといけないですね」と感想を述べられました。紀子さまは、犠牲者の遺体が写る写真の前で静かに手を合わせられ、悠仁さまは「写真や映像が持つ情報の多さや力を感じました」と、その重みを深く受け止められた様子でした。
7月中旬、私は実際にこの「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」に足を運びました。恵比寿駅から写真美術館へ向かう道中は断続的な強い雨でしたが、会場は若者から年配の方々、さらには海外からの訪問者で混雑しており、皆が真剣な表情で展示された一枚一枚の写真に見入っていました。会場全体が重い空気に包まれ、誰も声を発することなく、深く歴史と向き合っている様子が印象的でした。
原爆投下時の詳細と「きのこ雲」が語る歴史
企画展のカタログには、1945年8月6日午前8時15分、米軍が広島市に投下した原爆が、島病院の上空約600メートルで炸裂した時の詳細が記されています。直後に発生した火球の中心温度は摂氏100万度を超え、爆心地周辺の地表は3000度から4000度、爆風波は秒速約280メートルに達したとされています。その場にいた生身の人間は、何が起こったのかも分からぬまま瞬時に焼き尽くされ、爆心地から2キロ以内の建物はほぼ全てが破壊され、焼き尽くされました。
特に注目されるのは、「きのこ雲(炸裂約2〜3分後)」の写真です。これは地上から最も早く捉えられたきのこ雲の写真であり、原爆の爆発によって生じる巨大なキノコ状の雲を写し出しています。当時17歳だった山田精三さんが、爆心地から約6.5キロ離れた広島県府中町の水分峡で、原爆の炸裂から約2分後に撮影したものです。カタログには、山田さんが飛行するB29爆撃機と落下傘を見ていたところ、閃光、地響き、ごう音に襲われた体験が綴られています。「松の木々の下から太陽が上がってくる感じでね。雲の色は赤と黒の絵の具を混ぜたような…」という彼の証言は、被爆の瞬間がいかに非現実的で恐ろしいものであったかを物語っています。
平和への願いを未来へ継承する意義
秋篠宮ご一家が「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を訪問されたことは、広島と長崎への原爆投下から80年という節目に、戦争の悲劇と平和の尊さを改めて社会に問いかける大きな意味を持ちます。特に若い皇族である佳子さまや悠仁さまが、被爆の現実を肌で感じられたことは、次世代への平和教育、そして戦争の記憶の継承において計り知れない価値があると言えるでしょう。この企画展とご一家の訪問は、日本が平和国家としての歩みを再確認し、核兵器のない世界を目指す国際社会の取り組みに、改めて貢献していくことの重要性を示唆しています。