米国のアラスカ州でドナルド・トランプ前大統領とロシアのウラジーミル・プーチン大統領が会談した数日前、トランプ氏はウクライナ和平の条件として「領土交換」という表現に言及し、ウクライナ国内に大きな混乱を招きました。この発言は、ロシアが武力で奪ったウクライナの土地と引き換えに、ロシアの一部がウクライナに与えられるのか、といった疑問を浮上させました。しかし、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領がワシントンへ移動する中、現在のトランプ氏の考えには「交換」の要素は含まれていないようです。代わりに浮上したのは、ウクライナ東部の主要地域、特にドンバス地方の割譲を巡る、ウクライナ人にとって極めて難しい選択です。この提案は、ウクライナの主権と国民の生活に深刻な影響を及ぼす可能性があり、国内では様々な感情が渦巻いています。
ドンバス割譲案の核心:トランプ氏の狙いとプーチン氏の要求
報じられているところによると、トランプ氏はゼレンスキー大統領に対し、ウクライナ東部のドネツク州とルハンスク州全域をロシアに明け渡すよう圧力をかける意向だとされています。その見返りとして、ロシアは残りの前線を凍結することになるとの提案は、アラスカでのトランプ氏とプーチン氏の会談でプーチン氏が提示した条件に合致しています。
ルハンスク州はすでにほぼ全域がロシアの支配下にあります。一方、ドネツク州では、ウクライナがいくつかの主要都市と要塞を含む約30%の地域を支配しており、数万人の命を犠牲にしてこれらの地域を維持してきました。このドンバス地方は、鉱物資源が豊富で工業が盛んな地域であり、歴史的にもウクライナにとって重要な意味を持つ場所です。
「悲劇」と捉える声:領土割譲が意味するもの
ドンバス地方を構成するルハンスク、ドネツク両州をロシアに今明け渡すことは「悲劇」だと、ウクライナの歴史学者ヤロスラフ・フリツァク氏は指摘します。「そこはウクライナの領土だ。この地域の人々、特に鉱山労働者は、ウクライナのアイデンティティ強化に大きな役割を果たしてきた」とフリツァク氏は語ります。また、ドンバス地方は「著名な政治家や詩人、反体制派」も輩出してきた地域であり、もしロシア領になってしまえば、すでに故郷を追われた人々は戻れなくなると懸念を示しています。2014年のロシア侵攻以来、少なくとも150万人のウクライナ人がドンバス地方から避難しており、ロシアの占領下で暮らす人は300万人を超えると推定されています。
前線に最も近い地域では、住民の生活は常に危険と苦難に晒されています。ロシアの猛攻を受けたドネツク州スラヴャンスク市に住む従軍聖職者アンドリー・ボリロ氏(55)は、最近、自宅のすぐそばに砲弾が着弾したと電話インタビューで証言しました。「ここの状況はとても厳しい。諦めと、自分たちは見捨てられたという感覚が広まっている。私たちに耐える力がどれほど残っているのか分からない。誰かに守ってもらわないと。でも、誰が?」と、彼は窮状を訴えます。ボリロ氏はアラスカからのニュースを追っており、「これはゼレンスキーではなく、トランプのせいだと思っている。彼らは私からすべてを奪っていく。これは裏切りだ」と強い不信感を露わにしました。ゼレンスキー大統領は一貫して、和平のためにドンバスを割譲することはないと主張しており、ウクライナ国民の間では、ロシアが和平合意を守ると信じる人は極めて少ないのが現状です。多くのウクライナ人は、ロシアが一方的に併合した土地を足がかりに、ウクライナの残りの地域へ攻撃を仕掛けるはずだと考えています。キーウ国際社会学研究所の世論調査によると、ウクライナ国民の約75%がロシアへの正式な領土割譲に反対しています。
ロシアの滑空爆弾攻撃により大きな被害を受けたウクライナ東部ドネツク州スラヴャンスクの住宅地。ドンバス地方の住民の苦難を象徴する光景。
「領土か人命か」:苦渋の選択を迫られるウクライナ
しかし、ウクライナもまた、長引く戦争でひどく疲弊しています。ロシアによる全面侵攻が始まって以降、数十万人の兵士と民間人が死傷しており、とりわけドンバス地方では、この苦難の終わりを切望する声も少なくありません。クラマトルスク市の救急隊員イェウヘン・トカチョフ氏(56)は、「ドネツク州の割譲について質問されているが、私はこの戦争をキロメートルではなく人命ではかっている」と述べました。「私には、数千平方キロメートルの土地のために数万人の命を差し出す用意はない。領土よりも命の方が重要だ」と、彼は人命優先の立場を明確にしています。
一部の人々にとっては、最終的に「土地か命か」という苦渋の選択が迫られています。ウクライナ国会議員で野党「欧州連帯」所属のウォロディミル・アリエフ氏は、ゼレンスキー大統領は「よい選択肢がひとつもない岐路に立たされている」と指摘します。「戦争をいつまでも続けられるほどの戦力は、私たちにはない。しかし、ゼレンスキーがこの土地を明け渡せば、それは憲法が破綻するだけでなく、国家への反逆になり得る」と、アリエフ議員はウクライナが直面するジレンマを語っています。
不明確な法的手続きと今後の展望
ウクライナでは、もし領土割譲の合意が成立するとして、それがどのような仕組みで実現するのか、はっきりしていません。正式な領土割譲には、議会の承認と国民投票が必要とされています。しかし、実際に起こり得るとすれば、正式な承認なしに、支配権を事実上放棄する形だと見られています。ウクライナ国会議員のインナ・ソヴスン氏は、そのプロセスは十分に理解されていないと指摘します。「どういう手順を踏むべきか、真に理解している人は誰もいない。大統領が合意に署名するだけでいいのか? 政府か署名すべきなのか? それとも議会なのか? 法的な手続が確立されていないのが現状だ。憲法の起草者たちは、こんな事態を想定していなかったので」と、法的な不確実性を強調しました。
ゼレンスキー大統領が18日にワシントンでトランプ氏と会談すれば、事態はより明確になるかもしれません。ゼレンスキー氏がホワイトハウスを訪れるのは、2月末にトランプ氏らと外交姿勢などをめぐって激しく口論して以来となります。アラスカでの会談結果はウクライナにとって不満が残るものでしたが、わずかながら希望が持てる知らせもありました。トランプ氏はプーチン氏との会談後、ウクライナへの安全保障の保証に関する立場を転換したようであり、将来的なロシアの攻撃からウクライナを守るために、欧州と共に軍事的保護をウクライナに提供する用意があることをほのめかしたと報じられています。
和平への鍵:安全保障の保証の重要性
ウクライナ国民にとって、領土問題などを含むいかなる合意においても、安全保障の保証は極めて重要な要素であることが世論調査で示されています。キーウ国際社会学研究所のアントン・グルシェツキー所長は、「ウクライナ国民は、さまざまな形(かたち)の安全保障の保証を受け入れる」と述べ、ウクライナ国民には安全保障の保証が「必要だから」だと強調しました。
前出のクラマトルスク市の救急隊員トカチョフ氏は、「単なる書面上の約束ではなく、実際の保証」がある場合にのみ、「領土交換」は検討可能になると話します。「そうなった場合にのみ、多かれ少なかれ、ドンバスをロシアへ明け渡すことに、私は賛成する」「イギリス海軍がオデッサ港に駐留するのなら、私は(ドンバス割譲に)同意する」と、具体的な安全保障の形態に言及し、それが和平合意の条件となる可能性を示唆しました。
和平への多様な道筋が模索され、トランプ氏のような取引型の交渉スタイルが展開される中、この戦争に実際に巻き込まれている人々の存在が忘れ去られてしまう恐れがあります。すでに10年にわたり戦闘を生き抜いてきた彼らは、平和と引き換えにさらに多くのものを失うかもしれないという深い不安を抱えています。ウクライナの歴史学者ヴィタリー・ドリブニツィア氏は、ドンバスはあらゆる職業や地位、立場のウクライナ人であふれる場所だったと説明し、「ただ単に、文化や政治、人口統計の話をしているわけではない。人間の話をしている」と述べました。ドネツクは、オデーサのように文化的な活動で評価されてきた場所ではないかもしれませんが、それでもあそこはウクライナなのだとドリブニツィア氏は強調します。「ウクライナのどんな片隅であっても、文化的に重要かどうかに関係なく、そこはウクライナだ」と、領土の重要性を人々の存在と結びつけました。
出典
- BBC News