平成を代表する歌姫として、10代から40代の4年代連続ミリオンセラーという前人未踏の偉業を達成した安室奈美恵。引退後もなお、彼女の音楽と存在は多くのファンに愛され続け、その伝説は色褪せることがありません。しかし、その輝かしいキャリアの礎は、どのように築かれたのでしょうか。本記事では、ノンフィクション作家・田崎健太氏の最新刊『ザ・芸能界 首領たちの告白』(講談社)から一部抜粋し、安室奈美恵が沖縄アクターズスクール創設者であり恩師であるマキノ正幸氏(2024年死去)とどのように出会い、その才能を見出されたのか、その知られざる誕生秘話に迫ります。
平成の歌姫、安室奈美恵の伝説的な姿
マキノ正幸、沖縄アクターズスクールへの情熱と独自の指導法
沖縄アクターズスクールの創設者であるマキノ正幸氏は、一度沖縄を離れ東京で高級石鹸のセールスマンとして奮闘しました。当初は慣れない販売業に苦戦したものの、やがてコツを掴み、アメリカ本社から表彰されるほどのトップセールスマンとして成功を収めます。その資金を元手に沖縄に戻ったマキノ氏は、ようやく真剣にスクール運営と向き合うようになりました。彼は音楽理論や演技論に関する書籍を貪欲に集め、熟読を重ね、教室でさまざまな教え方を試みました。
しかし、目に見える効果はなかなか現れませんでした。試行錯誤の末、マキノ氏はある重要な事実に気づきます。それは、まだ型にはまっていない子どもたちには、大人向けの音楽教室とは異なる独自の指導法が必要だということでした。その鍵となったのが「リズム」です。マキノ氏は、「黒人音楽、それもモータウンのようなサウンドに現われるアフタービートを身体に叩き込むこと」が重要だと表現しました。彼はこの“ビート”を体得できる才能を持つ人間を探し求め、見込んだ女性歌手を東京のレコード会社に売り込みましたが、残念ながら評価されることはありませんでした。この間、平哲夫氏は遠巻きにマキノ氏の活動を見守っていたとされます。
運命の瞬間:安室奈美恵との決定的な出会い
マキノ氏の著書である『才能』と『沖縄と歌姫』では、1987年の安室奈美恵との出会いの情景が少々異なって描かれています。この違いについてマキノ氏に直接尋ねたところ、『才能』はゴーストライターに任せきりにしたものであり、『沖縄と歌姫』の方が当時の正確な描写であると明かされました。マキノ氏が語る安室奈美恵との運命的な出会いは以下の通りです。
ある日、安室奈美恵は友人の付き添いでオーディションに訪れていました。マキノ氏はその小柄な少女を一目見て、強く惹きつけられるものを感じ、彼女が事務室のある2階に上がってきたら声をかけようと思っていました。ところが、彼女は一向に姿を現しません。帰ってしまったのかと焦ったマキノ氏は、スタッフが声をかけるよりも早く、見ていた書類を投げ出して階段を駆け下り、外へ飛び出していました。
30メートルほど先のバス停に、その少女は佇んでいました。秋とはいえ、沖縄の日差しはまだ強く、マキノ氏の背中にはじっとりと汗がにじみ、シャツが張り付くほどでした。遠くでセミの鳴き声が響く中、少女はまるでマキノ氏が自分を追って飛び出してくるのを知っていたかのように、じっと彼の方を見ていました。マキノ氏の視界にはもうその少女しか映らず、自然と走り出して少女に近づくと、挨拶を交わすよりも先に、こう言い放ちました。「君、アクターズスクールに入りたいの?」。少女は無言でただ頷きました。マキノ氏は肩で息をしながら続けます。「明日、お母さんを呼んできてね。お金はいらないといってね」。この言葉に、少女はにっこりと微笑み、再び頷いたのでした。この劇的な出会いこそが、後に日本を代表する歌姫へと成長する安室奈美恵の伝説の第一歩となったのです。
マキノ正幸氏の独自の指導法へのこだわりと、その直感に導かれた安室奈美恵との出会いは、日本の音楽史における奇跡とも言える瞬間でした。一人の恩師の情熱と先見の明が、いかにして稀代の歌姫を誕生させたか。この伝説の誕生秘話は、安室奈美恵の輝かしいキャリアの礎となり、今日の音楽シーンにも多大な影響を与え続けています。
参考文献
- 田崎健太『ザ・芸能界 首領たちの告白』(講談社)
- マキノ正幸『沖縄と歌姫』(光文社)