来る10月21日の首相指名選挙において、日本初の女性総理大臣となる可能性が高まっている自民党総裁の高市早苗氏。彼女の政界入り以前のキャリア、特に「元米国連邦議会立法調査官」という肩書きについては、これまで度々その正確性が疑問視されてきました。コーネル大学大学院で博士号を取得し、米国の大学で教鞭を執った経験を持つ柴田優呼さんは、この肩書きに違和感を覚えると指摘します。高市氏が自身のキャリアをスタートさせた当初から用いていたこの呼称は、どのような背景を持つのでしょうか。
「米連邦議会立法調査官」という初期の肩書き
高市氏が政治評論家として活動を始めた頃、テレビ出演や自著のプロフィールで頻繁に用いられたのが「元米国連邦議会立法調査官」という肩書きでした。しかし、この表現が経歴を過度に盛り過ぎているのではないかとの声が上がっています。現在の報道機関が高市氏の経歴を紹介する際には、「米国連邦議会で働いた経験がある」といった曖昧な表現にとどめているのが現状です。高市氏自身の公式プロフィールでは、「米国連邦議会Congressional Fellow(金融、ビジネス)」と記載されており、かつての「立法調査官」という呼称とは異なっています。
高市氏は、安倍晋三元首相や英国のマーガレット・サッチャー元首相への敬意を表明し、自身も「安倍氏の後継者」「日本のサッチャー」と称されることで存在感を高めてきました。柴田氏は、このように大物に自身をなぞらえながら立身出世を遂げる高市氏流のブランディング手法は、約35年前のキャリア開始時から既に始まっていたと見ています。
日本の次期首相候補とされる高市早苗氏の演説風景
「コングレッショナル・フェロー」と「立法調査官」の違い
では、高市氏が米国から帰国し、日本でキャリアを歩み始めた当初、彼女自身はどのように自己紹介していたのでしょうか。1989年に出版された高市氏の最初の著書『アズ・ア・タックスペイヤー:政治家よ、こちらに顔を向けなさい』(祥伝社)の表紙には、「元米連邦議会立法調査官 高市早苗」と明記されています。さらに裏表紙の略歴欄には、「1988年1月より1989年3月までアメリカ連邦議会立法調査官として働く」と記載されています。本文中でも、「日本人では初の米連邦議会のコングレッショナル・フェロー(立法調査官)として、パット(パトリシア・シュローダー議員)の事務所で働いていました」と説明されています。
ここで重要なのは、高市氏が連邦議会の事務局スタッフではなく、特定の議員事務所のスタッフであったという点です。「官」という言葉が日本では公務員や官僚を連想させがちですが、実態は異なります。高市氏自身の説明によれば、事務所には3人の立法補佐官(レジスレイティブ・アシスタント)が常勤スタッフとしており、高市氏は議会特別研究員である「コングレッショナル・フェロー」という身分の「立法調査官」として採用されていたとされています。これは、立法補佐官が恒久的な職であるのに対し、コングレッショナル・フェローは特定の期間に限定された研究員としての立場であることを示唆しています。
若き日の高市氏と自己ブランディング戦略
初期の著書で「元米国連邦議会立法調査官」という肩書きを前面に押し出した高市氏の戦略は、早くから自身の政治的イメージと存在感を確立しようとする意図が見て取れます。特に、米国の政治中枢での経験を強調することは、帰国後の政治評論家としての活動、そして将来的な政治家としてのキャリアにおいて、説得力と専門性を付与する上で極めて有効でした。
彼女が後に安倍晋三氏やサッチャー氏といった大物政治家になぞらえられ、その存在感を増していく過程は、若き日に確立したこの自己ブランディングの延長線上にあると考えることができます。初期の肩書きをめぐる疑問点は、高市氏のキャリア形成における戦略の一端を物語るものと言えるでしょう。
高市早苗氏が日本の政治史において新たな一ページを開く可能性がある今、彼女の過去の経歴、特に初期に用いられた肩書きの正確性に関する議論は、彼女の人物像をより深く理解するために不可欠な視点を提供します。この疑問点が、今後の政治活動にどのような影響を与えるか、引き続き注目が集まります。
出典
- 柴田優呼, PRESIDENT Online
- 高市早苗, 『アズ・ア・タックスペイヤー:政治家よ、こちらに顔を向けなさい』祥伝社, 1989年