【良識派左翼】人を「ハーフ」と呼ぶ人が無邪気にしている差別 日本が多様性を受け入れる前にすべきこと ★5
しかし、私たち人類は何世紀にもわたって「それ以外」のやり方をするよう訓練されてきた。だいたいの場合、両親や教師、メディア、それから、そう、国のトップからも、表面的な条件や間違った情報を根拠に、あるグループを「異質」あるいは「特別」と考えるように教え込まれている。
残念ながら、この手の考え方が世界中で起きている差別のようなものにつながる。ここ、日本でも毎日それは起きている。
しかし、まず「自分たちの言葉を疑う」ことから始めれば、心の中に住みついている考え方や信条の問い直しにつながる。それは正しい方向に進む重要な第一歩だ。
例えば、「ハーフ」という言葉を例にとろう。差別の意図はなく、無邪気に使われる場合が多いが、その言葉そのものは一部の日本人を「普通の」日本人と区別したいという思いから生まれたのは明らかだ。彼らの「異常さ」がその日本語には埋め込まれている。
これまでに教えられ、使ってきた言語を疑おうとしないならば、これらの多くの言葉が持つ有害性に気づかないままになってしまう。
英語でも、日本語でもその他の言語でも、私たちが普段使う語彙の中には、人種差別主義者、女性嫌悪者をはじめ、傲慢な考えを持つ人々が作り出した言葉がかなり多く含まれている。こうした言葉を使い続けるのは、言葉が作られるのに欠かせなかった不穏な考え方を暗に受け入れるのと同じだ。
だが、時代は変わった。言語もまた進化する必要がある。
私は作家だからかもしれないが、言葉には力があると信じている。そして、麻生さんは政治家として、人前で発言する公人として、もちろん言葉の力を知っているはずだ。言葉は使う人によって万能薬にも毒薬にもなる。命を救いもすれば、奪いもする。それについては、誤って逆になることはありえない。
■ 人口の2%がすでに非日本人
現在、日本の全人口1億2600万人のうち、2%超が非日本人である。国内では3%と言われる国際結婚の夫婦に生まれたミックスの人々はもちろん、アイヌなどのマイノリティーに属する人々も含まれる。このような国の指導者の1人が、急激に多様化する国を「1つの民族」と言い表すなら、申し訳ないが、それは私たちには必要のない毒である。
必要なのは、この毒の標的になっている人々に、心から共感を持とうとする努力だ。共感である。同情とは混同しないでほしい。
多様性を受け入れるプロセスの1つは、肌の色や文化、言語が同じ人だけでなく、出会うすべての人それぞれの中に、自分自身の姿を見いだそうとすることだ。
共感を持つのは簡単ではないし、とくにここ日本では難しいが、不可能ではない。私は日本のミックスの人々や、あらゆる国々のマイノリティーに共感できるが、大半の日本人にはおそらくできない。マジョリティーの一員であり続けるであろう人が多く、「非日本人性」を理由に差別を受ける側に回った経験を持たないからだ。
だから、日本人の多くは、例えば自分たちが、家主や雇用主が主義として(あるいは妙なステレオタイプから)非日本人を受け付けないせいで住宅の賃貸や就職を断られるなど思いもよらないのだ。ましてや、そのような屈辱的な目に遭ったときにどんな人間でも感じる精神的、心的、感情的な反応を想像するなど不可能である。
そのような状況で「かわいそう」と言うのは同情だ。一方で共感とは、誰かがほかの人間を冷たく痛めつけていると思うと、自分の心も痛むことだ。同情すると多少は自由な人間になれるかもしれないが、共感すれば許しがたいことを許してしまう態度から自由になれるのだ。同情は屈辱と自分の心との間に距離を置くが、共感は心を開いて屈辱を受け入れる。
逆に、マイノリティー(人種やそのほかの種類のマイノリティー)がマジョリティーに共感するのはさほど難しくない。実際問題として、何らかの形で社会に同化するには共感せざるをえないからだ。
■ 多様性の受容は労働力不足への対処とは違う
「より優れた」社会を知るよう強いられ、時には中にいる人たちよりもその社会に詳しくなったりする。
全文は下記で
https://toyokeizai.net/articles/-/327216
★1:2020/02/04(火) 00:13:33.87
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1580794365/