【記者発】誰かの命を守るために 整理部・森山志乃芙

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浸水した熊本県球磨村の住宅=6日午後(ドローン使用、沢野貴信撮影)

浸水した熊本県球磨村の住宅=6日午後(ドローン使用、沢野貴信撮影)

 それは、東日本大震災の直後だったと思う。日々の業務で震災の記事に触れていたが、帰宅後も憑(つ)かれたように震災のネットニュースを探しては読み続けていた、その中にあった「美談」だった。

 津波が迫る中、防災対策庁舎で避難を訴える放送を続けた女性の記事だ。庁舎は津波にのまれ、赤い鉄筋だけが残る。おそらくは最後まで職務を全うしたのだろう、と。

 彼女の死を悼み、責任感の強さをたたえるコメントがいくつもついていた。私も美談だと思った。ただ、その中に一つだけ、気になったコメントがあった。

 「どこが美談なんだろう。もし機械に任せて自動放送ができていたら、その間に逃げられたのに」

 確かこんな内容だった。膨れあがる議論を追うのはやめ、考え込んでしまった。

 美談だと、単純に思ってしまったことを責められている気がしたからだ。美談だと思って、そこで思考を止めてしまったら、同じことが繰り返されてしまうかもしれないのに。

 責任感を持つことは大切だけれど、何事も誰かの責任感だけに頼り切るのはよくない。機械に任せたりシステムを改善したりすることでその重荷を減らせるなら、その方がいい。誰かの命や苦しみと引き換えの美談は、ない方がいい。

 それを読者に考えてもらうのも報道の役目だと思うのだが、そこまで提示できていただろうか。

 翻れば災害はまた身近にある。九州豪雨の記事では、3年前の九州北部豪雨を教訓に早期避難した住民が多かったものの、被害を経験していない地区では行動が遅れた、とあった。3年前のことは「他人事(ひとごと)だった」とも。記事で写真で、被災を“疑似体験”してもらい、自分のこととして考えてもらえたらいいと思っていたけれど、なかなか難しいのだろう。

 だから、またここでも繰り返したい。避難勧告や防災放送を待たず、危ないかなと思ったらすぐ行動してほしい。自分がいち早く行動することで助かる誰かがいるかもしれない。避難所を見てみようかな、くらいの軽い気持ちでいい。

 自分の命を守るだけでなく、誰かの命も守るために。

【プロフィル】森山志乃芙

 平成14年入社。東京本社整理部、大阪本社整理部などを経て、27年から東京本社整理部。本紙の見出しにつけた「魔の2回生」は29年の新語・流行語大賞のトップテン入りした。

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