【コラム】我々が韓国のトランプではなかったのか


まだトランプ大統領が承服していない。選挙から2週間が経過した。政治的な葛藤が国民を分裂させた。極右派武装団体までがデモに合流したという。深刻な後遺症が心配される。トランプ個人の問題でも、米国だけの問題でもない。民主主義制度が脅かされているという危機感を払拭できない。

韓国でもこうした陣営論理が与野党を支配している。あなたはもう一人のトランプではないだろうか。選挙に負ければ潔く承服するだろうか。過程を問題視し、相手の弱点を誇張し、結局は従わないのではないだろうか。選挙に勝っても公職者であるより政党人として残り、選挙の時に受けた攻撃を数倍にして返し、次の選挙に勝つことにだけ没頭し…。

トランプが見せる態度を我々はすでに以前から経験してきた。ただ、民主主義の模範国がこの姿であるため、さらに不安になるだけだ。それでも頼れるのは職業官僚だ。三権分立は権力の無限疾走を牽制する。司法府の独立は政治権力の腐敗と独善を防ぐ最後の砦だ。

選出された権力が任命された権力を統制するしかない。とはいえ「統制」が「思うがまま」にしてもかまわないということではない。与党・共に民主党の尹建永(ユン・ゴンヨン)議員は監査院と検察に向かって「一線を越えるな」と警告した。月城(ウォルソン)原発1号機の閉鎖は大統領選挙公約であり、監査や捜査の対象でないということだ。文在寅(ムン・ジェイン)大統領が当選したことで「国民から承認を受けた」のであり、これを捜査するのは「選挙制度の無力化」と主張した。

理解できない。選挙を通じて承認されたのなら公論化はなぜ必要だったのか。経済性を改ざんして国民を欺いた理由は何か。政策の方向を捜査したのではない。その方向がどちらであっても公職者が資料を改ざんして政策決定の根拠にしたとすれば犯罪ではないのか。

公正であるためには状況が変わっても一貫性を維持しなければいけない。「ネロナムブル」(=私がすればロマンス、他人がすれば不倫)という言葉が最近ほどよく使われることはなかった。似たことに正反対の主張をするケースが数えきれないほど多い。文大統領だけが国民の選択を受けたのではない。李明博(イ・ミョンバク)元大統領の4大河川公約は何回も監査と捜査を受け、朴槿恵(パク・クネ)前大統領は弾劾された。選挙で当選したからといって何でもできるということではない。

選挙を通じて何でもできる免許を受けたとでも思っているのだろうか。それで脱原発政策、公文書改ざんをむやみに強行したのではないのか。「タクチゴ」(=手当たりしだい)は扇動スローガンであり、国政運営の原則でない。もともと一線を越えたのは監査院と検察でなく、「タクチゴ」服従を要求した執権勢力だ。

合理的な思考をまひさせるのは分裂のためだ。規則でなくどちら側かを善悪の基準とする。このため政策が間違っていてもそのまま進める。修正すれば自分たちに不利と考えるからだ。国の心配より自分たちの心配が優先される。

もう一つのドグマは善悪が過去にすでに決まったと考えることだ。「どちら側か」ですでに善悪と有無罪が決まる。事実上の「連座制」「烙印」だ。歴史は重要だ。過去を忘れれば未来に向かう道を探すのが難しい。歴史を通じてアイデンティティを確立し、一つの共同体として完成する。しかし歴史を統合でなく政治的攻撃に利用すれば国が引き裂かれる。

金宗直(キム・ジョンシク)の「弔義帝文」は戊午士禍の原因になった。中国の文化大革命は「海瑞罷官」という戯曲で始まった。歴史を利用した反対勢力の粛清だ。大躍進運動に失敗した毛沢東は文化大革命で政治的な逆転を図った。

基準は首領だ。大躍進運動を批判した彭徳懐は粛清された。その後任者の林彪は「毛沢東主席の言葉はすべて正しい」と叫んだ。民主主義式の制度と公正が入る余地はない。中国版「タクチゴ」だ。鄭成湖(チョン・ソンホ)議員、朴用鎮(パク・ヨンジン)議員のような合理的な指摘は打倒の対象となる。無分別な「タクチゴ」は中学生紅衛兵が適格だった。

最近はコロナと検察改革が世の中の話題だ。検察改革がなぜそれほど重要なのか。この政府の目標は何か。検察が政治権力化するのを防ぐことなのか、政治勢力が検察を利用するのを防ぐことなのか。それとも検察を民主党寄りにするのが目標なのか。いずれにしても目標に接近したようだ。検察の権限は分散し、検察の主要職務をすべて掌握した。高位公職者犯罪捜査処は発足を控えている。ところが与党や支持勢力はあたかも尹錫悦(ユン・ソクヨル)検察総長打倒を目標とするように動く。

「タンドリ」(=盧武鉉大統領弾劾反対ムードの中でいつの間にか国会議員になった人)があふれた当時の盧武鉉(ノ・ムヒョン)ワールドのようだった。退任後には廃族を宣言した。今また国会の5分の3を占めて20年執権を叫ぶ。「権不十年」だ。民主主義では制度が重要であり、易地思之(立場を変えて考えること)が必要なのはそのためだ。与党である時に節制し、野党である時は責任感を持たなければいけない。いつまた立場が変わるか分からない。文大統領もバイデン氏も「私を支持しなかった人たちも含めて全員の大統領になる」と誓った。その初心を忘れてはいけない。それが民主主義の核心だ。

キム・ジングク/中央日報論説委員/コラムニスト



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