山荘2階を制圧、浴室の窓から旗を振って合図する箱山さん(本人提供)
山荘2階突入時の様子などを語る箱山さん(上田市で)
1972年2月に起きた「あさま山荘事件」から50年。人質救出のため、2階に突入した元長野県警機動隊分隊長の箱山好猷(よしのり)さん(86)(長野県上田市)が読売新聞などの取材に応じ、当時の緊迫した様子を証言した。箱山さんは突入した2月28日、山荘に向けて出発する車両内で心の中で妻と2人の子供に別れを告げ、「死の覚悟」を決めたほか、2度にわたって生命の危機に遭遇したことを明かした。(浅野好春)
【写真】巨大な鉄球で壁を打ち壊した山荘に放水(1972年2月28日)
山荘2階に突入する前の箱山さん(左)(本人提供)
2月17日午前、訓練中に出動命令が出され、群馬、長野両県境にある和美(わみ)峠に向かった。18日未明、部下から「明かりが見える」と報告を受けたが、目を凝らしても確認できなかった。「不審者を見つけたら追いかけろ」と指示されていたため、箱山さんは「明かりを見つけて追跡していたら、銃撃戦となって命を落としていただろう」と振り返る。
逃走した9人の連合赤軍メンバーは栃木県内で強奪したライフル銃で武装していたが、機動隊員には拳銃1丁と銃弾5発しか渡されていなかった。連合赤軍が箱山さんらの存在に気づいて逃走を続けたため、銃撃戦にはならなかったが、最初の生命の危機だった。
その後、4人が逮捕され、残る5人は19日、あさま山荘に侵入。管理人の妻(当時31歳)を人質に立てこもった。にらみ合いは続き、27日夜の作戦会議で、1階と3階は警視庁、2階に県警の機動隊が突入し、県警は人質を確保する方針が決まった。箱山さんは部下に「会議では自由に意見を言ってほしい。その代わり明日は黙ってついてきてくれ」と告げた。決死の覚悟を固めるため、「別れの杯(さかずき)」も交わした。
28日朝、出発前に箱山さんは車中で目をつぶり、家族を思い浮かべながら、「もしものことがあっても、母子3人で仲良く元気でいてくれ」と祈った。男児2人はまだ小学生だった。
「行くぞ」。昼前に箱山さんは突入の突破口を開く「破壊工作班」の部下5人に号令をかけた。針金で2枚重ねたジュラルミンの盾を構えて前進すると、鉄パイプの爆弾が足元に転がってきた。幸い、不発弾だった。箱山さんは「爆発していたら死んでいた」と話す。2回目の生命の危機だった。