「つらいってもんじゃない」竹島周辺で韓国に日本漁船を拿捕され…日韓基本条約締結への交渉材料に【島根発】

[ad_1]

「つらいってもんじゃない」竹島周辺で韓国に日本漁船を拿捕され…日韓基本条約締結への交渉材料に【島根発】

FNNプライムオンライン

【画像】連行された刑務所で「トイレ抱えて寝ていた」

竹島シリーズの2回目に焦点を当てるのは、大きな社会問題となった日本の漁船の拿捕。
竹島問題の発端が、1952年の李承晩ラインの設定であり、これにともない、大きな社会問題となったのが日本の漁船の拿捕(だほ)。
それを解決する日韓基本条約が締結された1965年までの間に、長崎県の対馬周辺などで日本の漁船が300隻以上拿捕され、約4,000人が抑留、8人が死亡した。

李承晩ラインが与えた竹島問題への影響を紐解く。

拿捕後は「つらいってもんじゃない」

1954年11月、長崎県の対馬沖で拿捕された元乗組員に話を聞くことができた。

拿捕された元乗組員・小川岩夫さん(83):
とにかく、その時代は(韓国警備隊に)見つかれば、すぐ捕まる

当時・浜田など、山陰から出漁した漁船のうち、22隻が拿捕され、少なくとも約200人の乗組員が抑留された。

島根県在住の前田さんと小川さん。
約70年前の記憶をたどる。

拿捕された元乗組員・小川岩夫さん:
つらいってもんじゃないですわね。私が1番若い(当時15歳)から、トイレ(部屋に置かれた桶)抱えて寝ていた。汚い、臭いなんて言っておられない、寝るところがないから

拿捕後、連行された刑務所では、8畳ほどの部屋に21人が収容され、しゃべることも許されず、寒さと空腹に耐えて過ごした。

その後、移された収容所でも、粗末な食事によって栄養失調になる人もいたという。
前田さんは、3年3カ月にも渡り、帰国することができず、途中、仲間と脱走を試みたことも。

拿捕された元乗組員・前田誠治さん:
(船のエンジンが)結局かからなかった。船を岸に寄せて、収容所へ逃げ帰った。帰れるなら帰ろうかと思ったが、だから仲間に入ったけど

当時、未成年だった小川さんは、8カ月後に帰還するが、精神的にも大きな苦痛だったと振り返る。

拿捕された元乗組員・小川岩夫さん:
そりゃあ辛いですよ、何も悪いことした覚えはないのに、そういう目に遭ってみないとわからないですわね

[ad_2]

Source link