脱線事故で重体となった浅野千通子さん。今は講演家として活動する(本人提供)
尼崎JR脱線事故から25日で丸17年となる。2両目で大けがを負った宝塚市の浅野千通子さん(43)は、命の尊さや安全の本質を伝える「いのちの講演家」としての道を歩き出している。手術と長いリハビリに耐え、心の傷で自暴自棄にもなったが、自分と向き合い続けてきた。一歩一歩前に進む浅野さんには今、伝えたいメッセージがある。(小谷千穂)
浅野(旧姓・宮崎)さんは26歳のとき、通勤のため快速電車に乗り、事故に遭った。脱線の瞬間に意識を失い、気付くと「く」の字に曲がった2両目の内部で、全身に強い圧力を受けて動けなくなっていた。
周りは静かで「電車に挟まれた」と思ったが、上に多くの乗客が覆いかぶさっていたと後で知った。息が苦しく、叫んで助けを求めた。そばの若い男性は力が抜け、亡くなっていくのが分かった。
助け出された浅野さんは、骨盤が砕け、左脚の骨はすねから飛び出すなど全身14カ所余りを骨折していた。当時の痛みを「炎症で全身が燃えたぎって、マグマの中に漬かっているような感覚」と回想する。
激痛に苦しみながら、9回の手術とリハビリを繰り返すこと3年。「体を治せば事故を乗り越えられる」と努力を重ね、以前のように生活できるまで回復した。
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その頃、心に不調をきたした。重度のうつ病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)で「自分をコントロールできず、死に限りなく近かった」。29歳で発症し、34歳で双極性障害と診断されて入院した。
事故からの3年間は「せっかく生きられた命」と、体を治すことに集中していた。精神科医からの問いかけにも「大丈夫です」と気丈に振る舞った。見て見ぬふりをしていた深い心の傷は、体の回復に相反して開き始めていた。
「元の体に戻れば、元の自分に戻れるんじゃなかったの?」。絶望が広がった。事故のせいで私はこんなことになったのか-。社会とのつながりを断ち、引きこもった。
その後、家族の支えで快方に向かい、35歳で理学療法士の専門学校に入った。少しずつ社会とのつながりを取り戻し、夫の大樹さん(44)に出会って38歳で結婚、2人の子に恵まれた。
長い闘病の末に気付いた。「起きてしまった出来事は変えられない。どう捉えるかは自分次第」。ずっと自分の人生を生きている心地がしなかったが、ようやく歩き出せた。
現在は、これまでに培ったピラティスやセラピーの知識を生かし、オンラインサロンなどを運営している。
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2018年、浅野さんは講演活動をスタートさせた。「特殊な経験をした自分が、社会の役に立てることがあるのでは」と考え、鉄道や建築など人命を左右する職種の人に語る。
「安全の本質は愛」。浅野さんが最も伝えたい思いだ。外側の環境を整えていくだけでは足りない。自分自身を含め大切な人の命を守りたいという気持ちが大事。自分の命を大切にするからこそ、不安やイライラといった危険につながるストレス感情を見過ごさずに済む。
浅野さんは、今年も事故現場に赴いて亡くなった人に祈りをささげる。そして自身の心や体と向き合いながら、これからも安全のために自分のできることを続けていく。