「天気晴朗ナレドモ浪タカシ」ウクライナの電撃戦は、日露戦争の日本海海戦に例えられています。
PACE移住・難民・避難民委員会副委員長、ウクライナ国会議員、オレクシー・ホンチャレンコ氏のツイート
ウクライナ軍がハリコフ地方の戦略的な町、イズムに入りました。信じられない。春にロシア軍は1ヶ月かけて占領した。今、それは半日でそれを解放した。それは本当の「NEW対馬」だ。
対馬とは、「日本海海戦」のことです。
日本海海戦(にほんかいかいせん):日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で日本海で行われた海戦である。
主力決戦は対馬東方沖海域で行われた。日本以外の国々では、この海戦を対馬沖海戦と呼ぶ。
日本ではこのロシア側の艦隊を「バルチック艦隊」と呼ぶ事が通例となっており、本稿でもこの呼称を用いる。
この海戦は日露戦争中の最大規模の艦隊決戦であり、その結果、連合艦隊は海戦史上稀に見る勝利を収め、バルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させながらも、被害は小艦艇数隻のみの喪失に留めた。
日露戦争と日本海海戦/兵力差は陸軍7:1、海軍2:1
当時、日本は負ければ、北海道は完全にロシアに取られ、残った国土も完全に占領地になるという状況、つまりは属国になるということ、でした。
陸軍の総兵力はロシアが5百万人に対し、日本は75万人(7:1)。海軍の総兵力はロシアが、総排水量そうトン約51万トンに対し、日本は半分の25万トンにすぎませんでした。(2:1)(出典:知将、秋山真之、生出寿:徳間文庫)
当時の戦力を考えれば、万に一つの勝ち目もないと言われたこの戦いで、日本は勝利しました。優秀な人材と優秀な戦略があったからこそです。
その人材のうち、有名なのは陸軍では児玉源太郎、海軍では、東郷平八郎、秋山兄弟です。
そして最後の決戦と言われた、日本海海戦は勝つだけでなく、バルチック艦隊がウラジオストックに逃げ込むのを全て防がなければならない、完全勝利が求められました。
結果は圧勝 日本艦隊の完全な勝利
バルチック艦隊の損害。
沈没=戦艦六隻、巡洋艦四隻、海防艦一隻、仮装巡洋艦一隻、駆逐艦四隻、特務艦三隻 捕獲=戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻
抑留=病院船二隻
自沈=巡洋艦一隻、駆逐艦一隻
巡洋艦三隻と駆逐艦一隻、特務艦二隻はマニラや上海などの中立国に逃げ、武装を解除された。
戦死=四千五百二十四名
捕虜=六千百六十八名
これにたいして日本艦隊の損害は、水雷艇の3隻のみ
沈没=水雷艇三隻
戦死=百十六名
負傷=五百七十余名(出典:同上)
この勝利は、これまでの地球上のどの戦いでも、これ以上の勝利はないと言われ(今でも)評価されています。あまりの圧倒的勝利に、当時の外電は、日本のフェイクだと疑ったくらいです。
勝因は、武器等で言えば「下瀬火薬」「伊集院信管」「英国石炭」「一斉撃ち方」などが挙げられますが、何と言っても同時、あり得ないと言われた丁字型戦法(東郷ターン)でした。(ロシア側:α運動)
敵前で母艦の腹を見せて、取り舵一杯、大きくターンするやり方は、秋山真之中佐(当時)が日本古来の村上水軍から編み出し、それを東郷平八郎大将が実行したのです。
それにひきかえ、今の日本は・・・
(図2:東郷ターン(丁字型戦法)/出典:坂の上の雲)