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橿本芳江さん
橿本芳江さんの思い出を語る門口守子さん(左)と義娘の幸代さん(右)(6月1日撮影、神戸市西区)
(写真:47NEWS)
橿本さんが暮らし、亡くなった教会の部屋を紹介する中川敬悟さん(6月1日撮影、神戸市西区)
橿本芳江さんが昭和28(1953)年5月に保護されたことを示す「身上調書」の一文
還暦をお祝いされた橿本芳江さん
橿本芳江さんが毎日食事した教会の食堂(6月1日撮影、神戸市西区)
行事で「カップヌードルミュージアム 大阪池田」(大阪府池田市)を訪れた橿本芳江さん
橿本芳江さんを「行旅死亡人」として掲載した官報(2023年3月22日)
橿本さんが死後に納められる予定だった合葬墓(6月1日撮影、神戸市西区)
今年3月、ある女性が、身元不明で引き取り手のいない遺体「行旅死亡人」として官報に載った。女性の名は橿本芳江(かしもと・よしえ)さん。氏名や住所があったが、それにもかかわらずに身元不明と扱われたのには訳があった。橿本さんは「無戸籍」だったのだ。
【写真】「中国残留孤児」は聞いたことがあっても「残留婦人」は
なぜ無戸籍だったのか? 調べると、彼女は戦後、国鉄の駅に捨てられていたところを保護された孤児だったことが分かった。晩年は兵庫県の社会福祉法人が支援していたことも分かり、私は法人側と連絡を取って6月、指定された神戸市西区の住所へ向かった。着いてみると、そこは天理教の教会だった。(共同通信=武田惇志)
▽駅の子
二階建ての教会から出迎えてくれたのは、「社会福祉法人まほろば」(兵庫県三木市)常務理事の門口守子さん(83)と事務局長の中川敬悟さん(60)だ。天理教信者でもある2人は、教会で生活していた晩年の橿本さんを見守り、支援してきた。
橿本さんが以前に暮らした施設から、門口さんらに引き継がれた記録などによると、橿本さんは1953年5月、国鉄神戸駅(現在のJR神戸駅)で、生後間もなくの捨て子として見つかり、保護された。両親が誰なのか、どういう背景があって放置されていたのかは全く分かっていない。
「戦争が終わって8年しかたっていない時ですから、戦災による貧困など何かしら事情を抱えていたのでしょうね」と中川さんは推測する。本人の名前も、記録にあった1953年3月1日という生年月日も、保護した行政が設定したのか、両親が放置した際に何かしらの情報を残していったのかどうかも不明だ。
橿本さんが見つかった1953年当時の神戸駅は、どんな様子だったのだろうか。気になって神戸市立中央図書館に尋ねると、1957年発行の「神戸駅史」(神戸駅編、非売品)という書籍があると教えてくれた。
書籍によると、その年、神戸駅はまだ戦後の混沌の渦中にあった。駅南西の鉄道用地にはバラック小屋が並んでおり「一つの部落を形成し、クズ問屋とか日雇人夫とかの貧民達が、地代の催促もないままに、世帯数は六十五程であつた」という。駅側が立ち退き警告を発し、バラック側が抵抗する一幕もあったようだ。また「浮浪者取締や、年中を通じてのホームにおける闇米取締等の問題があつた」とも記されていた。
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