新婚1年目の事故で「夫壊された」 普通を奪われた家族の60年

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新婚で妻は妊娠5カ月。幸せな夫婦の日々は、夫の事故で一変した。あれから9日で60年――。戦後最悪の炭鉱事故となった旧三井三池炭鉱三川(みかわ)坑(福岡県大牟田市)の炭じん爆発事故に遭った元炭鉱マン、首藤宏也(しゅとう・ひろなり)さん(86)=熊本県荒尾市=は、一酸化炭素(CO)中毒となり、今も入院して後遺症と闘い、妻心子(もとこ)さん(85)が支えてきた。

心子さんの思い

1963年撮影、炭鉱事故で大破した建物と泣き崩れる遺族

10月下旬、心子さんは事故現場の三川坑跡に足を運んだ。三池炭鉱は事故後の操業再開を経て、1997年に閉山。それから四半世紀あまりが過ぎ、整備・公開された斜坑入り口跡には「ご安全に」「ご苦労さん」と書かれた看板がある。当時を再現したものだが、それを見た心子さんは「うそばかり。安全なら事故は起きていない」と憤った。

事故は63年11月9日に発生した。脱線した炭車から出た火花が、石炭の微粉末(炭じん)に引火して爆発。坑内に大量のCOが充満した。若者を含む458人が亡くなり、少なくとも839人がCO中毒になった。会社側が坑道の安全管理を怠ったことが事故原因で、救出の遅れが被害拡大を招いたとされる。

悲劇からの生き抜き

床に並べられた真っ黒な遺体

当時、結婚1年目で妊娠5カ月だった心子さん。事故の一報を聞き、看護師として働いていた勤務先から白衣のまま病院へ。床には顔が真っ黒になった遺体が並び、宏也さんは意識不明の状態で運ばれていた。

心子さんは身重の体を押して病院に寝泊まりし、宏也さんの名前を呼び続けた。事故の約40日後に昏睡(こんすい)状態を脱したが、高濃度のCOを吸い込んだことによる脳へのダメージは大きかった。反応は鈍く、見舞いに来た母親の顔が分からないなどの記憶障害が残った。

事故4カ月後に長女が誕生したが、宏也さんの枕元に連れて行っても、宏也さんは反応を示さなかった。「自分の子どもと分からず、惨めで仕方なかった」と心子さんは顔をしかめる。

生活は苦しくなった。労災障害等級の1級と認定されたが、支給された年金だけでは生活できず、心子さんは義母に介護と育児を頼み、定年まで病院で働き家計を支えた。

真面目で優しく、スポーツ万能でバスケットボールが得意だったという宏也さん。簡単な会話はできるようになったものの、思い通りに文字が書けなくなり、今は歩行も困難となって一時帰宅すらできない。

心子さんは、自宅から約70キロ離れた夫の入院先の九州大学病院(福岡市東区)に今も定期的に通い、「先に倒れるわけにはいかない」と週5回の筋力トレーニングを続ける。つらい日々を支えるのは、宏也さんとそっくりな顔をした長女の存在。「娘のおかげで頑張ってこられた」と語る。

悲劇を超えて

事故から60年。「会社(旧三井鉱山、現在は日本コークス工業)から謝罪はない」と心子さん。宏也さんに病室で「三井が謝るまで頑張ろうね」と声をかけると、宏也さんは「うん、頑張る」と答えるという。「事故で人間が破壊され、普通の暮らしができない60年だった。こんな悲劇は二度と起きてほしくない」。心子さんは力を込めた。

三池炭鉱は、福岡県大牟田市や熊本県荒尾市などにまたがり、1873年に明治政府の官営でスタートしました。88年に三井財閥に払い下げられ、翌年から三井三池炭鉱として操業。戦後は従業員が一時2万人を超えて「国内最大のヤマ(炭鉱)」と呼ばれた。1963年の事故で一酸化炭素中毒になった患者らが会社に損害賠償を求めた訴訟で、93年の福岡地裁判決は会社の過失責任と患者への賠償を認めた。97年に閉山。

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