旧暦ではあるが、151年前の今月8日、元号が「慶応」から「明治」へと改められた。近世から近代への画期であり、名実ともに「御代替わり」が完了したことになる。そして昭和20(1945)年のこの日、米国の占領軍が東京に進駐し、それから6年後のこの日、日本と連合国との間で第二次世界大戦を終結させるサンフランシスコ講和条約が調印されるとともに日米安保条約が結ばれている。
ひそかに日本の近代史を象徴しているこの「9月8日」にちなんで「戦争と平和」をテーマとして考えてみたい。「明治」の礎となった江戸開城における旧幕府代表、勝海舟と東征大総督府下参謀(新政府軍参謀)、西郷隆盛の2人の足跡を歴史の「点」と「線」から追いながら…。(編集委員 関厚夫)
勝は幕末の鈴木貫太郎? 米内光政?
「徳川家の無条件降伏のときの、どうせ駄目ならの勝海舟は、昭和史にあっては米内光政(よない・みつまさ=終戦時の海相)。小栗上野介(幕末時、主戦派の幕臣)は阿南惟幾(あなみ・これちか=終戦時の陸相)、せめて死中に一戦を、ということなんさ。人間みんなチョボチョボ、たいして変わらない、同(お)んなじだよ」
昭和を代表する社会評論家の大宅壮一さんが生前、そんなことを言っていた-と「歴史探偵」としても知られる作家、半藤一利さんは著書『それからの海舟』で明かしている。
そこで半藤さんは大宅さんの例えについて「当時は、なるほどとえらく感心したものであるが、いまは少々異見というか変ちき論をもっている」として、こう続けている。
「小栗の阿南はよろしいし、なんなら榎本武揚(幕末・維新期の旧幕府海軍副総裁。蝦夷島政府を樹立)以下をいっそ自爆覚悟の厚木飛行場の反乱軍、彰義隊をどうせ負けるならの宮城乗っ取りの反乱将校に。米内光政には大久保一翁(いちおう=旧幕府の会計総裁。勝と並ぶ和平派)を当てたくなる。そして勝海舟となれば、これはもう首相鈴木貫太郎に擬するのが正当と思うのである」
なぜか。