【“党利党略“選挙は私たちの責任】政治は「なる」でなく「する」もの、信を問われている日本のデモクラシー


 筆者はそこに「デモクラシー」の本質の一端を見た気がした。その意味で今回の解散総選挙は興味津々だ。日本のデモクラシーが試されている、と言っても過言ではない。

党利党略とデモクラシーの大義

 前選挙時にも言われたことだが、立憲民主党の野田佳彦代表の言葉でいえば「ご祝儀人気にあやかる選挙」というのは正鵠を射ている。支持政党を超えて理屈の上では、野田氏の政府批判に賛同する人も多かったのではないかと思う。

 しかしその「正論」がなかなか通りにくい。むしろそれを前提としない言動の方が主流ではないかと思われる向きもある。正論は正論だが、喫緊の課題の方が重要だ。

 しかも政局や社会が動揺するのは避けたい。安定が担保される範囲での選択にしたい。したがって目先の「無難な」解決論に議論は終始しがちとなる。

 「正論」は頭でわかっていてもなかなか投票行動には反映しない。しばしばいわれる保守的な日本のデモクラシーの特徴であり、限界であるといってもよいが、だとすれば日本国内でのデモクラシーの意味そのものが問われるべきではないか、と筆者は思う。

 もちろん、今回の解散総選挙は合法だ。裏金事件をめぐる政治不信も現実だ。しかし議論の本質はもっと根の深いものではないか。

 筆者は今般の事態は日本的なデモクラシーそのものの限界に対する危機ではないか考える。抽象的な言い方だが、その背景には「政治の大義」そのものの議論が欠落しているからだ。



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