1966年に静岡県で起きた「こがね味噌事件」。長年、冤罪を訴え続けてきた袴田巖さん(88)は、2023年10月8日、東京高検が控訴を断念したことで、ついに完全無罪が確定しました。逮捕から実に58年、死刑囚として過ごした歳は43年。想像もつかないような苦難の道のりだったに違いありません。
本記事では、巖さんと姉のひでこさん(91)の闘いを追い続けた連載「袴田事件と世界一の姉」の第47回目をお届けします。今回は、再審裁判を傍聴し続けた地元の若い女性、そして国会議員として袴田さんの命を救った人物にスポットライトを当て、事件の真相に迫ります。
事件を追い続けた24歳、中川さんの想い
9月29日、無罪判決から3日後、静岡市で開かれた報告集会に巖さんは姿を現しました。「えー、わたくしが袴田巖でございます。待ちきれない言葉でありました。無罪勝利が完全に実りました。」力強く、そして晴れやかな表情で語った巖さん。その姿を目に焼き付けた中川真緒さん(24)は、「あんなにはっきりと発言されるとは予想もしませんでした。嬉しかった。涙が止まりませんでした」と語ります。
清水市で生まれ育った中川さんが事件の存在を知ったのは中学生の頃。2014年3月、静岡地裁で再審開始と巖さんの釈放が決まった時のニュースがきっかけでした。しかし、当時は「自分の故郷でそんなことがあったんだ」という程度の認識だったと言います。
事件への関心が深まったのは、2023年3月、東京高裁で再び再審開始が決定されてからでした。長年、うつ病に悩まされてきた中川さんでしたが、静岡地裁に通い続け、8回もの間、傍聴券を手に入れることに成功。そして、ブログ「清水っ娘、袴田事件を追う」を立ち上げ、事件の真相を世に発信し続けました。
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中川さんは巖さんとひでこさんが暮らす浜松市のマンションを度々訪れ、巖さんと交流を深めていきました。「(当時の自分が)23歳だったので、自分のことを23歳とおっしゃる巖さんに親しみを感じました。今回は車椅子だったのがちょっとショックでした。1月にお会いした時よりも小さくなったかな」と、巖さんへの想いを語ります。
根強く残る偏見、無罪を信じない人々の声
中川さんは、事件が起きた清水区横砂地区など、巖さんの足跡を辿る中で、無罪を信じない人々の存在に直面します。多くの人は口を閉ざし、真実を知ることを拒むかのような態度を見せたと言います。
巖さんがボクサー引退後に経営していたバー「暖流」近くの飲食店を訪れた際のこと。店のマスターは巖さんを犯人だと信じ込んでおり、奥さんからは「もう十分に償ったんだからいいでしょう」と突き放すような言葉を浴びせられたこともありました。
再審判決後、中川さんは「模擬裁判」のイベントに参加し、再審で無罪判決を下した国井恒志裁判長(58)に直接、感謝の言葉を伝えました。検察が控訴を断念した10月8日の朝には、支援者たちと共に街頭に立ち、オンライン署名を求めるチラシを配り、マイクを握って署名を訴え続けました。
10月14日には、静岡労政会館で完全無罪報告集会が開催されました。映画「ロッキー」のテーマソングが流れる中、名リングアナウンサーだった須藤尚紀さん(62)が「WBC名誉チャンピオン、袴田巖―っ」と高らかにコール。巖さんとひで子さんが弁護団と握手を交わしながら壇上に上がると、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれました。
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「長い戦いがございました。やっと無罪、完全無罪が実りました」(巖さん)
「無罪になって勝ったんだよって言ってるんですけど、まだ(弟は)半信半疑でいるようなところがあるんです。みなさんにお祝いしていただいているうちに実感として沸くと思います」(ひで子さん)
巖さんは、この日のために用意されたチャンピオンベルトを身につけ、喜びを噛み締めました。壇上で2人に花輪を贈呈した中川さんは、「再審裁判で巖さんに死刑求刑した検察官の顔は絶対に忘れません。この冤罪事件を後世にずっと伝え続けます」と、力強く宣言しました。
畝本直美検事総長(62)は判決について「到底承服できない。控訴すべき内容」としながらも、「袴田さんが長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれ、控訴は相当ではない」との談話を出しました。しかし、弁護団は「犯人扱いしている内容で名誉棄損」と反論し、談話の撤回を申し入れました。
巖さんの完全無罪が確定した今、事件の真相究明、そして再発防止に向けた取り組みが求められます。中川さんのように、若い世代が事件に関心を持ち、語り継いでいくことが、冤罪のない社会を実現するために不可欠と言えるでしょう。