大河ドラマ「光る君へ」でも描かれたように、平安時代の貴族たちは和歌で想いを伝え合いました。現代では少し想像しにくい光景ですが、歌人同士であれば、今でも歌で愛を告白する例があるようです。京都大学名誉教授の永田和宏氏と、十三回忌を迎えた歌人・河野裕子氏もその一人。今回は、お二人の青春時代を描いた『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』を紐解きながら、歌に込められた永遠の愛を紐解いていきます。
幼少期の火傷と母への深い愛情
河野裕子氏は4歳の頃、不慮の事故で背中に大火傷を負いました。貧しい家庭環境の中、十分な治療を受けられなかった裕子氏。母親の君江さんは、毎晩傷跡を撫でながら謝り続け、裕子氏にとってかけがえのない存在となりました。永田氏はこの出来事について、「裕子にとって母は生涯、何にも代えがたい存在だった」と綴っています。そして、裕子氏がその傷跡を永田氏に打ち明けた夜のこと、その葛藤と勇気を想像し、胸を痛めたと語っています。裕子氏の母への深い愛情と、それを包み込む永田氏の優しさが感じられるエピソードです。
河野裕子氏と永田和宏氏の歌が刻まれた歌碑
言葉を超えた歌の力:沈黙の夜と歌の告白
ある日、永田氏と裕子氏はほとんど言葉を交わさずにいました。喫茶店「再会」から平安神宮まで歩き、バス停で別れる際、永田氏は裕子氏をバスに乗せようとしましたが、彼女は頑なに拒否。バスは行ってしまいました。沈黙の中に秘められた二人の心情は、どのようなものだったのでしょうか。歌人であるお二人は、言葉ではなく歌で想いを伝えていたのかもしれません。言葉では表現しきれない複雑な感情、胸の内の葛藤、そして秘めた愛情。歌はそれらを包み込み、相手に伝える力を持っています。歌人だからこそ通じ合う、言葉を超えたコミュニケーション。それは現代社会においても、大切な心の繋がりと言えるでしょう。
京都大学名誉教授の永田和宏氏。歌人・河野裕子さんの十三回忌に合わせ夫婦の歌を刻んだ歌碑を建てた
永遠の愛を歌碑に:十三回忌への想い
永田氏は、河野裕子氏の十三回忌に際し、二人の歌を刻んだ歌碑を建立しました。これは、裕子氏への永遠の愛を形にしたものと言えるでしょう。歌人夫婦の物語は、私たちに多くのことを教えてくれます。言葉だけでなく、歌を通して心を通わせる大切さ、そして愛する人への想いを形にすることの尊さ。歌碑は、二人の愛の証として、未来へと語り継がれていくことでしょう。 著名な歌人、例えば俵万智さんも、歌碑建立に感慨深い思いを抱いているのではないでしょうか。
まとめ:歌に込められた愛と人生
永田氏と裕子氏の物語は、歌の力、そして愛の深さを改めて私たちに教えてくれます。言葉を超えたコミュニケーション、そして永遠の愛を形にする行為。それは、現代社会においても大切なメッセージと言えるでしょう。