皇室の方々の動向は断片的な報道からしか伝わらず、その本音となると霧の向こうにかすむようにしか見えない。しかし実は、折々に発表される短歌には思いが能弁に立ち現れていることはほとんど知られていない。
【写真】「お父さま、それはいかがなものですか」愛子さまが陛下を諫めた意外な理由
平成の天皇と皇后は、なぜ激戦地や被災地を訪問し続けたのか。どのような思いで日々を過ごしたのか。宮中歌会始の選者を務めるなど両陛下ともゆかりの深い永田和宏氏が、その御製にあふれる思いと背景を読み解く。
永田和宏著『象徴のうた』(角川新書)より、内容の一部をお届けします。
※皇室の方々の呼称は基本的に2018-19年、本書の元になった共同通信社の配信当時のものを生かしています。そのため、天皇、皇后は現・上皇、現・上皇后を指します。
新しい天皇皇后の姿
人々の年月【としつき】かけて作り来【こ】しなりはひの地に灰厚く積む
平3(1991)年 天皇
昭和64(1989)年1月7日に昭和天皇が亡くなると、皇太子明仁【あきひと】親王が即位、翌日元号が平成となった。喪の期間を経て、即位礼が執り行われたのは、翌年11月12日であった。そのわずか五日後、17日に長崎県、雲仙普賢岳【うんぜんふげんだけ】がほぼ200年ぶりという大噴火をひき起こした。
振り返ってみれば、平成という時代は、まことに多くの自然災害に見舞われた時代であったが、その最初が雲仙普賢岳の噴火だった。平成3(1991)年6月3日に普賢岳で大火砕流が発生。以降、数年にわたって火砕流、土石流がつづき、死者・行方不明者44人、2500棟にものぼる建物の被害が出た。火砕流という言葉を多くの国民が知ることになる噴火であったが、灰色とも茶色とも形容しがたい、巨大な生き物のような火砕流が猛烈な勢いで山を奔【はし】り降りる姿が、我々に大きな衝撃を与えたことはなお記憶になまなましい。
この大惨事は、災害の大きさのほかに、まだ噴火活動が続くさなか、天皇皇后両陛下が被災地に直接赴き、被災者を慰め、激励したという点でも、人々の記憶に強く残る出来事となった。
両陛下は、同年7月10日朝、東京をたち、日帰りで島原市、深江町(現・南島原市)などの七カ所の避難所に足を運んだのである。日帰りという強行日程は、被災地の人々に余計な負担をかけないようにという配慮からであったという。