三島事件:50年以上経ても色褪せない衝撃、その真相に迫る

三島由紀夫。日本文学史に燦然と輝くこの名前は、同時に「三島事件」という衝撃的な出来事と切り離せない。1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地で起こったこの事件は、日本社会に大きな波紋を広げ、今もなお多くの議論を呼んでいる。作家としてだけでなく、思想家、活動家としても異彩を放った三島の最期とは一体何だったのか。本記事では、元東京都副知事の濵渦武生氏と元プロ野球選手・元参議院議員の江本孟紀氏の対談を元に、事件当時の様子やその真相に迫る。

事件発生時の緊迫感:市ヶ谷に漂う異様な空気

1970年、三島事件発生当時、江本氏は社会人野球選手として熊谷組に所属していた。事件現場となった市ヶ谷駐屯地は、江本氏の勤務地からわずかひと駅。事件発生の一報を受け、いてもたってもいられず市ヶ谷へと駆けつけたという。当時の沿線には、異様な空気が漂っていたと江本氏は振り返る。

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濵渦氏と三島由紀夫:学生時代の出会いから事件当日まで

濵渦氏は関西大学の学生時代に三島由紀夫と出会っている。講演依頼を断られたというエピソードからも、三島の強い個性と信念が垣間見える。一方、石原慎太郎氏とは親交を深め、後に石原氏の参謀として活躍することになる。事件当日、濵渦氏は「楯の会」メンバーからの連絡を受け、事態の深刻さを察知する。

クーデター未遂と割腹自殺:バルコニーでの演説、そして衝撃の結末

三島由紀夫は「楯の会」隊員と共に市ヶ谷駐屯地を訪れ、益田兼利東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを呼びかける演説を行い、その後割腹自殺を遂げた。この衝撃的な結末は、日本中に大きな衝撃を与えた。

事件の真相:益田総監だけが知る真実、そして残された疑問

事件の真相については、様々な憶測が飛び交っている。益田総監の証言から、三島の首は据わらずに転がっていたという生々しい事実が明らかになっている。介錯の失敗によるものとされているが、真相は藪の中だ。一方、森田必勝の首はまっすぐに立っていたという証言もあり、事件の不可解さをさらに深めている。

50年以上経っても色褪せない記憶:複雑な思いと後世への教訓

三島事件から50年以上が経過した現在、自衛隊は事件現場を開放し、見学できるようになっている。江本氏は国会議員時代に現場を訪れ、刀痕の生々しさに衝撃を受けたという。事件の真相は未だ解明されていない部分も多いが、この事件は日本の歴史における重要な転換点となったことは間違いない。私たちは、この事件から何を学び、未来に繋げていくべきなのか、改めて考えさせられる。