福島第一原発事故から10年以上が経過した今なお、当時の緊迫した状況は多くの人の記憶に刻まれています。2011年3月12日未明、刻一刻と悪化する原発の状態の中、菅直人首相(当時)は福島第一原発を緊急訪問しました。ベント作業の遅延、高まる放射線量、そして現場の疲弊…未曾有の危機に直面した首相と現場の様子を、NHKの10年にわたる取材を元に詳細に振り返ります。
未明の地震と遅延するベント作業
3月12日未明、新潟県と長野県の県境で震度6強、6弱の地震が立て続けに発生。東京でも強い揺れが観測されました。危機管理センターに緊張が走る中、菅首相は補佐官と共に地下に降りてきました。官房副長官の福山哲郎氏からベント作業が未だ完了していないという報告を受け、首相の表情は一変します。
菅直人首相(当時)
当初午前3時に行われる予定だったベント作業は、なぜ2時間半以上も遅延していたのでしょうか。東京電力の武黒一郎氏からの説明は、電動ベントが停電で使用不能のため、手動での作業準備に時間がかかっているというものでした。さらに、現場の放射線量の上昇も作業を困難にしているとのこと。しかし、この抽象的な説明に、首相や福山氏は納得できませんでした。刻一刻と爆発の危険性が高まる中、焦燥感は募るばかりでした。
現場の苦闘と首相の焦り
1号機の格納容器内圧力は通常の6倍に達し、2号機も同様の状況に陥る可能性がありました。吉田昌郎所長(当時)は、1号機と2号機の両方でベントを行うという決断を下します。高放射線量下での作業は想像を絶する危険を伴いますが、運転員たちは決死の覚悟で任務に当たっていました。
一方、官邸では、首相の焦りは頂点に達していました。「自分自身で現場を確かめなければ」。強い使命感に駆られた首相は、福島第一原発への緊急訪問を決意します。
菅首相、福島第一原発へ
夜が明け始めた午前5時半過ぎ、菅首相は福島第一原発へ向かいました。想像を絶する緊張感の中、現場ではどのようなやり取りが交わされたのでしょうか。
情報の不足と意思決定の難しさ
当時の状況を振り返ると、情報伝達の遅延や不正確さが大きな課題でした。現場の緊迫した状況がリアルタイムで官邸に伝わらず、意思決定の遅れにつながった可能性も指摘されています。また、極限状態下での判断の難しさも改めて浮き彫りになりました。
福島第一原発事故は、日本のエネルギー政策の転換点となりました。この未曾有の危機から何を学び、未来にどう活かすべきか、私たちは常に問い続けなければなりません。