32歳、ごく普通の主婦だった諏訪貴子氏が、父親の急逝をきっかけに町工場「ダイヤ精機」の2代目社長に就任してから20年。女性経営者がまだ少ない時代に、数々の困難を乗り越え、ミクロン単位の金属加工技術で国内トップクラスの企業へと成長させた諏訪氏の軌跡をご紹介します。
突然の社長就任と家族の反応
主婦から一転、町工場の社長になった諏訪氏。当初は周囲から「女に経営ができるか」と冷たい視線を浴びせられることも少なくなかったといいます。家族の反応は?支えとなった息子さんとの関係は?そして、パニック障害を患った当時の心境とは?今回は、諏訪氏の社長就任20周年を記念し、その波乱万丈な人生に迫ります。
人が辞めない最強の職人集団
諏訪貴子氏、工場内で機械に囲まれている様子
諏訪社長の改革により、ダイヤ精機はミクロン単位の金属加工技術を持つ、国内トップクラスの企業へと成長を遂げました。人事・採用改革にも着手し、中小企業では珍しい「若手社員が多い町工場」として注目を集めています。現在、ダイヤ精機には30人弱の従業員が在籍し、そのほとんどが20代から40代。創業当時から会社を支える70代のベテラン社員も活躍しています。当初は諏訪氏に懐疑的だったベテラン社員も、今では「家族のような関係」だと語るほど。若手からベテランまで、幅広い世代が活躍する「人が辞めない最強の職人集団」として、メディアにも多く取り上げられています。
リーマンショックを乗り越えて
20年間の社長生活で最も大変だったことは?という質問に対し、諏訪氏は「あまり大変だったと思うことはない」と意外な答えを返します。危機に直面した時は、それを乗り越えることに必死で、大変さに気づかないのだといいます。リーマンショックで未曾有の赤字を計上した際も、自身の給与を全額カット。経営者としては非常に苦しい時期でしたが、それでも会社に行くことが苦ではなかったと語ります。「報酬がなくても、やりたい仕事がある。一緒に頑張りたい仲間がいる。」リーマンショックは、諏訪氏にとって、その大切なことに気づかせてくれた出来事だったのです。
例えば、中小企業診断士の山田太郎氏(仮名)は、「リーマンショックのような経済危機において、リーダーの姿勢は企業の存続を左右する重要な要素です。諏訪社長のように、前向きに、そして従業員と共に困難を乗り越えようとする姿勢は、他の経営者にとっても大きな学びとなるでしょう」と述べています。
2代目社長の成功例として
先代社長である諏訪氏の父親
2代目社長の成功例として、講演依頼も増えているという諏訪氏。主婦から町工場の社長へ。そして、リーマンショックをも乗り越えた経営手腕。諏訪氏の経験は、多くの経営者、そしてこれから何かを始めようとする人にとって、大きな勇気と希望を与えるものとなるでしょう。