許永中氏、荒れた学生時代:大学は入学式後わずか1週間?!

大阪・中津の在日コリアン街で生まれ育ち、「闇社会の帝王」と呼ばれた許永中氏。その壮絶な人生は、喧嘩に明け暮れた学生時代から始まりました。今回は、宝島社刊『許 永中独占インタビュー「血と闇と私」』を基に、彼の波乱万丈な学生時代を紐解いていきます。

大学生活への幻滅:パチンコ、雀荘、玉突き…大学周辺の誘惑

昭和40年4月、大阪工業大学工学部機械科に入学した許氏。柔道部にも入部しましたが、大学に幻滅を感じたのは入学直後でした。勉学に励む学生の姿はなく、7年生、8年生がたむろする姿ばかり。女性の姿もほとんど見られず、理工系大学の現実を目の当たりにしたのです。

大学最寄りの大宮駅周辺には、パチンコ屋、雀荘、玉突き屋が学生をターゲットに商売を展開。そこには、大学にはいない女性の姿がありました。許氏にとって、これらの店は大学よりも魅力的に映ったのでしょう。大学に通ったのは、入学式直後わずか1週間ほど。授業には一切出席せず、試験も白紙で提出したといいます。

大宮駅周辺の賑わい大宮駅周辺の賑わい

高校時代から始まったアウトローの世界:学生との喧嘩は「子供の喧嘩」

高校2年生の頃から、応援部や空手部の大学生に喧嘩を売り、恐喝を繰り返していた許氏。しかし、学生との喧嘩は「子供の喧嘩」でしかないと感じていました。すでに高校時代からアウトローの世界に足を踏み入れていた彼にとって、学生の喧嘩は物足りなかったのです。

鉄火場で学生を挑発し、「殴ってこいや」と煽ることもありました。しかし、学生は手を出そうとはしません。「先輩に対してなんちゅう態度や」「その口の利き方は、なんや」と口答えするのが精一杯でした。許氏の実力、そして彼が醸し出す雰囲気を前に、学生たちは怯えていたのかもしれません。

許氏の学生時代は、アウトローとしての片鱗をすでに覗かせていました。大学という学び舎に馴染むことなく、自らの道を突き進んでいく姿は、後の「闇社会の帝王」と呼ばれる所以なのかもしれません。

まとめ:許永中氏の原点、学生時代の葛藤

許永中氏の学生時代は、大学への幻滅、そしてアウトローの世界への傾倒という、彼の人生を決定づける重要な時期でした。大学という枠組みに収まらず、自らの道を切り開いていく姿は、後の彼の生き方を暗示しているかのようです。

この記事では、許氏の学生時代における葛藤や経験に触れました。彼の壮絶な人生の始まりを知ることで、より深く「闇社会の帝王」と呼ばれた人物像を理解できるのではないでしょうか。