江戸時代、平均寿命はわずか45歳。そんな短命の時代に85歳まで生きた偉人、杉田玄白。蘭学者として『解体新書』を世に送り出し、日本の西洋医学発展に貢献した彼の長寿の秘訣とは?この記事では、玄白の生涯と健康哲学、そして現代にも通じる健康へのヒントを探ります。
若き玄白と医学への情熱
杉田玄白(本名:杉田翼)は、小浜藩主酒井家の江戸下屋敷で生まれました。祖父は蘭方医やオランダ語通詞から蘭学と医学を学び、杉田家の礎を築いた人物。父も小浜藩医を務め、玄白自身も21歳で父の跡を継ぎました。
杉田玄白の銅像
江戸という大都市で育った玄白は、最新の朱子学や蘭学、医学に触れる機会に恵まれました。青年期には朱子学者、荻生徂徠の兵書から人間の体の仕組みに興味を持ち、西洋医学へと傾倒していきます。その後、幕府の奥医師、西玄哲に蘭方外科を学び、江戸随一の蘭方医として名を馳せることになります。
健康長寿の秘訣『養生七不可』
多病がちで、身近な人を早くに亡くした経験から、玄白は健康に人一倍気を遣っていました。そして、古希を迎える前年には、自らの健康哲学を『養生七不可』としてまとめ、知人に配っています。
玄白が実践した7つの健康ルール
- 昨日の事は恨まない、悔やまない。
- 明日の事は悩まない。
- 飲み過ぎない、食べ過ぎない。
- 腐ったり傷んだりした食べ物は食べない。
- 何でもない時に薬を飲まない。
- 元気でもむやみに寝所で精気を費やさない。
- 体を動かさずに怠ける事を好まない。
これらのルールは、現代の健康管理にも通じるものばかり。特に「素食」と「適度な運動」は、玄白の長寿に大きく貢献したと考えられます。 また、玄白は「病気はなるべく自分自身の摂生で治せ」という考えの持ち主でもありました。後輩の医者への書簡には、「治療法は大袈裟にならないように」と助言する記述も残っています。
『解体新書』と日本の西洋医学への貢献
30代になった玄白は、人体の構造を詳しく記したオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』に出会います。蘭方医らと実際に解剖を見学し、図表の正確さを確認した玄白は、日本語訳に着手。これが後の『解体新書』となり、日本の西洋医学発展に大きな影響を与えました。
解体新書
当時の藩医の収入は、現在の金額で年収1080万円ほど。裕福な暮らしを送ることができたにも関わらず、玄白は医学の探求に情熱を注ぎ続けました。机上の学問だけでなく、実地での経験も重視し、常に学び続ける姿勢が、彼の偉業へと繋がったと言えるでしょう。
現代社会への示唆
杉田玄白の生涯は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。健康への意識、学び続ける姿勢、そして社会貢献への情熱。これらは、時代を超えて私たちが学ぶべき大切な要素と言えるでしょう。